【第二部】第35話.明継
【第二部】第35話.明継
穂高らが自治区に向かってから、札幌の屋敷で明継らは静かに日常に戻ろうとしていた。いや日常ではあるが明継の、彼の胸にはなにかぽっかりと穴が空いてしまったようだった。
一時的にとはいえトリィは家族となり、彼らは四人で過ごしていた。その彼女がいなくなってしまった。はじめからわかっていた事だが、どうしても寂しさというのが込み上げてくるのだった。
「チェ」
一人、庭でなんとなしに竹刀を振るう。彼はこの歳で週に三回、道場に通っている。周りは少し歳上の門下生ばかりだ。赤石の爺様が剣に詳しく、それに憧れた彼が道場に通うのに時間はかからなかった。彼はしばらく竹刀を素振りしていたかと思えば、屋敷の方へ顔を出してから大きな声で言った。
「お母様、道場に行ってきます!」
「……うん。はい、気をつけていきなさい」
明子がひょっこりと顔を出して、そう返事した。道場は屋敷と同じ通りにある、目と鼻の先であった。明子は、穂高から自分が帰宅するまで何事にも注意しろと言われていたのを思い出した。しかし、我が子がいつもの稽古に出るのに、わざわざついて行くのも野暮だろうとそのまま引っ込んだのだった。
明継は竹刀を方手に持ち、そのまま家を離れて通りに出た。しばらく歩いたころ、彼はふいに後ろから声をかけられた。
「おい、坊主。一人か」
振り向くと大柄な男が二人、お天道様を隠すように立っていた。父親である穂高進一よりも頭一つ以上大きな男たちだ。山のような威圧感がある。
「……えっ」
「おい、一人かって聞いとるんだ」
「あの、どちら様ですか」
「どちら様でもねえよ」
男は低い声でそう言いながら、ぬっと顔を近づけた。まるで肉食動物の唸り声を彷彿とさせるような動作に、明継は思わず半歩下がった。
だがそこで踏みとどまって、明継は男をキッと睨みつけて言い返した。
「おれを穂高明継だと知って声をかけたのか」
明継は父の所作を思い出して、震える声でそう言い返したのだ。彼の、その五歳とはとても思えないような言いように、大男たちは顔を見合わせた。
「はっはっはっはっは!そうか坊主があの有名な穂高明継かぁ!これは知らなかったな」
大きく笑いながら、横の男に「お前は知っていたか」と問いかける。
「くっくっく。いやぁ、俺もはじめて聞いたよ」
二人の男が並んで笑った。黄色く尖った歯を見せて笑う姿は、御伽噺で聞いた赤鬼のようだった。
「ならなぜ、おれに声をかけたのか」
明継は、ぎゅっと竹刀を持つ手を握りしめた。男の目が、ぐぅっと力のあるものに変わった。
「ここいらはな、坊主のような子供が一人で出歩くと危ないんだ。鬼が出て、喰っちまうかもしれねえぞ」
鬼が出るのだと赤鬼のような男たちに言われても説得力がない。彼らに出会わなければ万事問題なく、今頃は道場に到着しているはずなのだ。
「大丈夫、すぐそこの道場に行くだけだから」
「へぇそうかい。ならそこまで送ろう」
「い、いいよ」
「良いから。ほら、いけ」
そう言って男は明継の肩を押した。二、三歩よろけて前にでる。鬼のような乱暴な男たちだが、すぐにどうこうしようというつもりはないらしい。
「わかったから、押すなよ」
「おう、行け」
歯向かっても無駄だろう。明継は諦めたように道場へ向かって歩き出した。それを後ろから大きな男らがついていく。一種異様な光景だが、周りにもそれを指摘する者はいなかった。
「……着いた」
いつ赤鬼が本性を表すのかと内心怯えて歩いてきたが、結局のところ何事もなく目的地に到着してしまったのだった。
「着いたから」
「おう。良かったな、しっかり稽古してこいよ」
「……はい」
釈然としないものを感じながら、明継は道場の門をくぐるのだった。