【第二部】第32話.一夜ノ宿
【第二部】第32話.一夜ノ宿
「おい!やったで、爺さんの家に泊まっても良いってよ」
「良かったぁー!」
吉野の報告にトリィの歓声があがった。近くの集落に到着したので、彼が一夜の宿を借りる為の交渉に出ていたのだ。
「飯も布団も出せへんけど、水は使えって言うてくれたわ」
「うん。米はあるから鍋を借りれば飯も炊けるな。ともかく屋根があるだけでもありがたい」
自然に口角が上がる。余所者に対して集落の者がどのように対応するか、色良い返事は返ってこないかもしれんと覚悟していたところであったために喜びも大きい。どうしても外の人間に対する警戒心というものがある。それでも一組の日本人らしい老夫婦が、家の中で一泊するのを受け入れてくれた。とてもありがたい事だ。
「御隠居様。今回は我々を受け入れて頂き、ありがとうございます」
「いや、困った時はお互い様だなぁ」
穂高が老人に頭を下げると、それを手で制して彼は笑みを見せた。良く日に焼けたシワだらけの顔は、日々の生活の苦労を表している。贔屓目にみても潤った集落ではない、寒村というのがぴったりの小さな村だ。家の中に案内されて、荷物を背から下ろした。
囲炉裏の側に腰を下ろしたた爺様が、こちらを向いて質問を口にする。
「お前さんらは、何処からきなすった」
「札幌から」
「ほぉ、そん娘も札幌かい。日本人にゃあ見えねえけども」
「はい。札幌にも色んな人種がおりますから」
「そうかい」
しゃがれた声で爺様は続ける。表情は穏やかで、どうにも話し相手が欲しかったようである。
「俺らはなぁ明而五年にこっちに来てよぉ、この辺りを拓いたんだ。そりゃはじめは大変だったよ。米は上手く育たねえし、冬になったら雪はふる」
「はい」
「それでも荒地を耕して、ないものを工夫して、何とか少しずつ米も取れるようになった」
穂高は真剣な顔で黙って頷く。
「それに、ある時にはルシヤ人がどっと入って来てな。それからは人手も増えて、ようやっとったんじゃ」
爺様は、シワだらけの手の人差し指だけを伸ばして我々を一人づつ指差していく。囲炉裏の側で並んで座っているところへ、婆様が近づいてきた。
「まぁたそん話ばっかりしよってからに。娘さんはこっちおいで」
三人とも輪のようになって正座していると、婆様がトリィを呼んだ。彼女はちょっと戸惑った表情を見せたが、穂高が頷くと素直について行った。
「だがなぁ、この間の戦争でな。ルシヤ人はみんな引き上げだと。残った若いもんも町に出るし、もうこの村に住んどるのはわしらのような年寄りだけだ」
直接戦争に関わることのなかったこの村では、ルシヤ人と日本人はその後も共に生きていたのだろう。彼の話は続く。
「こんなんじゃ、もうこん村は終わりぞ。自治区だかちくわだかわからんが。お上が日本だろうが、ルシヤだろうが、何処だってわしらには同じことだ」
穂高は彼に何事か言ってやろうと思ったが、言葉が出てこず返事に窮した。
人がいて、土地がある。
実際にその地面には、人が生きて暮らしているのだ。戦争に勝ち、領土を得て、偉ぶって地図の上から土地に線を引く事が、全ての国民を幸せにするとは限らないという事だ。
しかし日本帝国陸軍に所属する彼は、どうしてもそちらの立場に立ってしまう。
「なぁ若いの、もしあんたがえらぶつになったらよ。足元にいる人間のこともよぉく考えてやってくれよ」
まさか爺様に身分を明かしたわけではない。それでも彼がそんな話をするのは、いったい何を感じてのことだったのだろうか。
……
その夜、隙間風吹くボロ屋の屋根の下。身を寄せ合って眠っていると、寝付けないのか吉野が何事か語りかけてきた。
「今日は爺さんが喋り通しで、ほんま聞いているだけで余計に体力を使ったわ」
「そうか。私には何か考えさせられるものがある話だったよ、聞けて良かった」
「爺さんの苦労話をかぁ?このご時世、みんな何か不便を抱えて生きてるんや、泣き言を言うてても始まらんで」
我が身の回りには人情深い吉野だが、距離の離れた人間にはわりとドライであった。
「それもそうなんだがな。なんだかお前と喧嘩した時の事を思い出したよ」
「俺が中将暗殺に関与したと取り調べ受けた時やな。実際俺はその件には関わってないんやけど。まぁ、あれは今でも俺は正しいと思っとるで」
「そうだな。中将を狙った事は許される事ではないが、主張としてのお前の言い分は間違ってはいない」
「でもお前も正しいんやろ?」
「そうだ。よく分かったな」
くっと笑って吉野は言った。
「何年一緒におると思ってるんや」
「お前ならば御隠居の言葉に賛同するかと思ったが」
「賛同して何か良い事でもあるんか?後ろ向いても復興はできんやろ。俺も理想主義者じゃあないんやわ」
「ほう」
「あの時も、理想やなく現実に戦争って手段を取らんでも何とかなったと思ってる。でも実際は戦争が起こった。そしたらそれを何とかしようとするし、終わった後は次のことを考えるわ」
吉野の目は真剣だった。それを見た穂高の心が動いた。驚いたような顔をした穂高に彼は問うた。
「どないした?」
「ああ、若いと思っていたが。よく物事を考えているなと思ってな。驚いた」
「若いっておい、俺はお前より年上やぞ!」
「ふっはは、そうだったな」
吉野吾郎、彼は穂高とは同期だが年上だ。