【第二部】第30話.監視
【第二部】第30話.監視
パチリ、パチリと焚き火の音だけが耳に響く。暗く静かな山の中にあって、炎の輝きというのは何よりも心強いものである。
特に暗闇の中にあっては陽の下では気が付かないところまでもが煌々と輝いて、見るものに力を与えてくれる。この光こそが暗闇を照らし外敵から身を守るものであると、人間の根源に生まれながらに刻まれているのではないだろうか。
荷車の荷台で寝ているトリィの顔を見る。日中は慣れない行軍で疲れたのだろう、穏やかな顔で深く眠っている。吉野は荷物を下敷きにして近くに転がっているが、貴重品と思われる物はしっかり頭の下に敷いているあたり抜け目が無い。
日中は暑くとも夜は冷える。地面に熱が奪われるのが特に堪えるのだが、そのあたりは二人とも気を使っているようである。
うっすらとした雲に月が見え隠れする。静かな夜だ。山の動物もみな静かに眠っているのだろう。そんな夜に、ただ一つだけ穂高には気になる事があった。彼は何気ない様子を装いながら、視線は鋭く、黒い木々の奥を見つめる。
「……ふん」
穂高は小さく息を吐く。しばしば何かしらの視線を感じるのだが、鷹の目にすら何も映らず、その正体を掴めずにいた。
五年前の戦争では、この辺りでもおびただしい数の犠牲者が出た。果たしてそれらが化けて出たとしても不思議ではない。
さあ、この視線は気のせいなのか。それとももののけか、獣か、人間か。
「人間が一番恐ろしいな」
視線を下に落として、ボソリとつぶやいた。
何よりも人間こそがいっとう恐ろしい。この地で一番人間を殺したのは、亡霊でもなく獣でもなく人間なのだから。
しばらく時間が経っても、感じる視線は消えない。だがそれは小銃で狙われている時のような、冷たい殺意を秘めた視線ではない。もっと何か、軽い感覚だ。
すぐそばで寝ていた吉野が、のそりと起きてきた。寝ぼけ眼で穂高の方を見て、小声で言う。
「ふぁ。そろそろ交代やな、なんかあったか」
「なにがと言うわけではないが、どうも視線を感じるのだ」
吉野は顔を拭うように手をやってから首を一周ぐるりと回した。
「誰かおるんか?」
「いや、注意を向けて見たが誰も居ない。人も獣もな。緊迫した殺気は感じないが、どうも観察されているというような感覚が拭えん」
「気のせいやろ」
吉野はそう言ってスパッと切り捨てる。
「まず夜の山ん中で、お前より目が効く人間がおる訳ないわ」
「いや、わからんよ。世の中には色んな人間がいる。もっと優れた者もいるだろう」
ずいっと吉野は穂高に顔を近づけた。
「存在するとかしないとか、そういう意味じゃあない。俺はお前を高く評価しとるって事や。ほら学生の時分に一緒に山に登った時、まだ明るいのに誰も見えない一番星が一人だけ見えてた事もあったやろ」
「そんな事もあったか」
「あったわ。今までの人生で俺はお前ほど眼の良い奴を知らんし、危険を察する能力もしかりや」
よいしょと持ち上げてくれるが、穂高の表情は明るくない。どうにも腑に落ちないところがあると気になってしまう性分なのだ。
「緊張のしすぎや、交代するから少し休め」
「……そうだな」
そうして彼らは役割を入れ替える。見張る者と休息を取る者だ。穂高は引っかかるものを感じつつも、後の事を吉野に託して目を閉じた。
数時間の仮眠の後、空が白みはじめた頃に目が覚めた。澄んだ空気を吸い、今日の陽の光を浴びて山々の生き物たちが活動をはじめる。彼らもその例に漏れず、一日の始まりを迎えるのだ。
乾いた喉に水を流して、三人で軽食を取った。出発前の火の始末をしているときに、穂高はある事に気がついた。
「あの藪、昨日と形が違うな」
「藪って、あのあたりの草むらの事ですか?」
「ああ」
昨日、明るいうちには真っ直ぐだった草の葉が僅かに頭を垂れている。わずかな違いだが違和感があった。トリィが目を細くして指を指した方向をジッと見つめるが、どうも把握できていないようだ。横から吉野が出てきて言った。
「朝露で濡れて、しなったんやないか?」
「項垂れる程に濡れているようには見えんがな。仮にそうだとしても一様に傾いていてしかるべきだろう、一部だけが曲がるものか」
吉野の意見を耳に入れつつも、それを否定する。昨日の事もある、用心して損はないだろう。
「人でなくとも生き物の仕業である可能性はある。少し調べてみよう」
そう言って穂高は道から外れた藪を分け入って進む。慎重に辺りを捜索すると、柔らかな地面にいくらかの足跡があるのを確認した。
その時、どこまで行くのかと心配の声を上げながら吉野とトリィが後ろに続いてきた。振り返って、今見つけた痕跡を指し示す。
「見ろ足跡だ。人数は2、3人という所か」
足跡の数から、人数を予測する。人間の歩幅というのはおおよそ決まっているのだから、一定区間のその数を調べれば人数は推測できるのだ。
「クマとか獣の足跡じゃないんか?」
「おいおい、私がクマと人間の足跡を間違えるか。こんなもの一目でわかる」
「ああ、元狩人やったな」
ここに2、3人の人間が来たとして、我々の野営地までは少し距離がある。闇の中に火を見たので遠巻きに観察しただけなのか。襲撃を目的としているならば、すでに行動を起こしているだろう。目的はなんだ、そして一体何者だ。
「しかし、わずかな月明かりだけで藪に入るなんて命しらずやな」
「そうか。確かにな……」
街灯などない時代。灯りも持たず、しかも唯一の道を離れて藪の中に入るとなれば遭難する可能性が高い。土地勘も度胸もある人間でなければそんな事はできまい。
「ニタイの民か」
その一つの可能性が浮かび上がった。