【第二部】第20話.渡河
【第二部】第20話.渡河
予期せぬ邪魔が入ったものの気を取り直し、彼らは入念に準備した。岩木教諭を先頭に、列をなした学生達が次々に川へ入って行く。
浅くは膝小僧を濡らす程度の、深くは腰の辺りまで達する程度の流れがある。
河川を徒歩で渡るというのは歴史が古く、江戸時代には橋を掛けるのはおろか、渡し舟すら禁止された河川もあり、その場合は渡しを徒歩で行った。人足が客を肩車して、対岸まで送り届けたのだ。学生らが背嚢を頭の上に抱えて列をなして渡って行く様子は、それに近いものを感じる。
「くく。ははは、はははは」
暫く様子を見ていると、視察だと言っていたルシヤ人らが笑い始めた。何がおかしいのかはわからんが、真剣にやっている横でヘラヘラされては士気に関わる。
「邪魔になる。口を閉じておいてくれ」
穂高がそう言うが、男らはふざけた表情のまま笑いを堪えた様子で話し始めた。
「いや、悪い。日本人はこんな水たまりの事を『川』だと呼んで、仰々しく渡っているのがおかしくてな」
「全く。ルシヤの河川は、広く深い。こんな川の真似をしたおもちゃでなく、本当の川だよ」
馬鹿にしたような声で二人は続ける。
「日本人は、こんな腰までもないような浅瀬を渡るのに、服を脱いで荷物をリュックに詰めて。ご苦労な事だ」
「わがルシヤであれば、これくらいの浅瀬を渡るに尻込みするような兵はおらんな。装備をつけたまま怒涛のように渡り切るだろう」
聞いているのも馬鹿らしいので無視を決め込みつつ、前方の川渡りに異常がないか目を配る。
「……ふん」
そんな穂高の態度が面白くないのか、ルシヤ人の男は鼻息ひとつ残して口を閉じた。
学生の一人がルシヤ人の与太話を真に受けて、妙に神妙な顔をしている。彼は、意を決したように穂高に問うた。
「穂高教諭。彼奴等の言うように本当にルシヤ兵は装備のまま川を渡るのでしょうか」
穂高にだけ聞こえるような小さな声で、無垢な学生はそう訊いた。穂高は表情を変えずにその学生の顔を見る。
「あ、いえ、その……」
しまったという顔をして、学生は言い淀んだ。彼は鶴見という名で、成績優秀な頭の良い男だ。
「それはそうかも知れんな。私には確認しようがないが」
「……」
学生の表情からは、我々は先進のルシヤ帝国に劣っているのだという落胆の色が窺えた。穂高は鶴見学生の瞳を横目に見て「だがな」と続ける。
「白人の言うことが何でも正しいと思うのは、明而以来のそれに対する劣等意識のあらわれでしかないぞ」
「で、では、やはり彼奴等は間違っておるのですね。着衣のままの訓練など……」
「いや、全て日本人が正しいというような日本至上主義というのも、劣等意識の跳ね返りという意味では同義だ」
口を開けて、ぽかんとした表情で固まる。
「それでは、どう取れば良いのでしょうか」
「彼我に違いがあるという事でしかない。彼らが言う事も、我らが言う事も。内容を精査せずに、誰が言ったからと鵜呑みにすると言うのが阿呆だと言うことだ。頭を使えよ、学生」
そう言って、穂高はニヤリと口の端を歪めて見せた。
「頭を」
「そうだ、そこはただの軍帽の置き場所ではないという事だ」
穂高は学生の丸い頭をポンと叩く。そうこうしているうちに、鶴見の順番が回ってきた。
「行ってこい」
「ハイ!」
引き締まった背中をこちらに、褌姿の鶴見が駆け足で河原に向かって行った。ぎらりと水面が陽の光を返している。
「しかし、この男らは」
誰にでもなく、穂高は一人ぽつりと呟いた。このルシヤの男らは何を考えているのだろう。トリィの足取りを探して、私を観察しているのだというのならわかる。だが、我らの教練を笑ってなんの得がある。目的は何だ。
ふっと、視察の男らに目を向ける。彼らは楽しそうに学生らの背中を熱心に見学していた。
「見ろ、あいつケツを出しているぞ」
「ははははっ!猿の水浴びだな」
本当に馬鹿なのか。
それならそれで構わんが、仕事の邪魔にしかなりはしない。穂高は誰も見ていないところで「フゥ」とひとつため息を漏らした。