【第二部】第19話.山中演習
【第二部】第19話.山中演習
六月。北加伊道は過ごしやすい気候となり、鮮やかな緑に包まれる。この日、穂高は岩木と共に学生を連れ立って山に入っていた。
泊まりがけの山での演習では、四日間に渡って家を開ける事になる。不在の間に、先日の清国人のような者が現れてはいかんというので、穂高の家の者は赤石の実家に里帰りすることにした。当然トリィも同行している。
赤石の家は警備がしっかりしているので、まず間違いは無いだろう。
「事前体操!用意、始め!」
水面が白金色にきらめいて、木の葉の影の間に光る。河原に整列した学生らは、定規で測ったように等間隔になり体操を始めた。その場駆け足の足音が小気味よく揃っている。
それだけでは満足できないのか、岩木教諭が各学生一人一人を舐めるように見て回る。
とある学生の前で、岩木教諭の足が止まった。
「貴様、気を緩めるな!準備をせねば命取りになるということがわからんか!」
半端な体操をしていた学生に、岩木教諭が喝を飛ばした。そう、はるばる装備を担いで山を登って来た彼らは、今から更に川を渡ろうというのである。水に入る場合には、準備体操を怠るとろくな事にはならない。
数度の岩木教諭の指導が入り、学生らに緊張感が生まれた頃に体操が終わった。
「渡河準備!」
河岸に整列した学生たちは、各々の背嚢へ衣服や装備を全て収納して、ふんどし一丁の姿となった。
揃った学生らは見る限り全員丸刈りである。穂高が学生であった頃には頭髪に決まり事は無かったが、以降に流行したようだ。
軍人たるもの、いつ何時召集されるか分からんので、起きたらそのままの頭髪で飛び出せるようにとの事である。もっともらしい理由であるが、誰が言い出したのかはわからない。
六月の気温とはいえ山の川の水は冷たく、身体を濡らすという事は低体温症に直結する。
訓練中の学生が列をなし川に入っていけば、全体が渡河完了するまでには相当の時間がかかる。最前の学生が向こう岸についてから、最後尾が到着するまでに一時間からも要するだろう。
その間、河岸で濡れたままただ突っ立っていれば、体温の低下により行動不能になる事は想像に難くない。
特に着ている衣服が水に濡れたままになるのは致命的である。そこで、装備を濡らさぬように背嚢にまとめて、それを掲げて水に入るのだ。
いざ、という時に学生の一角がざわざわと騒めいた。岩木教諭が真っ直ぐにそちらに向かって叫ぶ。
「貴様ら何をやっているかッ!」
我々がづかづかと一直線に近づいていけば、学生が左右に割れてその間から見慣れぬ顔が現れた。明らかに日本人ではない、作業服のようなものを着ている二人組の男。
「誰か」
眉をひそめてそう問いただした。偶然このような山中で人に出会うとは考え難い。誰何とともに、つま先から頭までを観察する。二人とも大柄で、ルシヤ人のように見える。伊達や酔狂で山に入ったにしては、使い込まれたブーツが不自然だ。男たちから返答はなく、ただ突っ立っている。
「我々は北部方面総合学校の者だ。現在この地で演習中の為、部外者はご遠慮願いたい」
今にも食ってかかりそうな岩木教諭を制してそう伝える。それを聞いて、薄ら笑い浮かべながら男は口を開いた。
「視察に来た」
「何?」
「北加伊道の視察に来たと言った」
視察だと、男はさも当然かのような表情だ。ルシヤの視察団が札幌に来ると言うのは聞いたが、演習中の山の中に現れる道理があるだろうか。
「わざわざこんな山の中まで視察だと?ありえんな、何が目的か」
「その山の中の演習を見学したい」
「許可できない」
「お前達のボスの許可は出ているぞ」
男の一人が手紙のようなものを取り出して、岩木教諭に手渡した。彼は苦虫を噛み潰したような顔でそれを眺めると、一つ舌打ちした。
「本物だ。演習を見学させてやれという事だ」
不機嫌を隠しもせずに岩木教諭はそう言った。仕事の邪魔にしかならん上に、不遜な態度を取るルシヤ人の対応をするなど、彼には我慢できんのだろう。
「では日本の学生達のお手並を拝見させて貰おうか」
男達は腕を組み、悪びれもせずにそう言った。