【第二部】第10話.居酒屋
【第二部】第10話.居酒屋
「おい穂高、乗れや」
仕事を終えて、帰路にあった穂高に何者かが声をかけた。いや、この札幌にあってこの出で立ちで自動車を乗り回しているのは一人しかいない。
「吉野か。また非常識な誘いだな」
「なんでもええやろ。飯でも食いながらちょっと話そうや」
「ふん」
夕方の茜が、水路の水に跳ねてあたりをオレンジ色に染めている。自動車から上半身を乗り出しながら、吉野が早くしろと目で訴えた。
「まぁ良いだろう。乗せて貰おうか」
「よっしゃいくで」
乗り込むや否や、すぐに自動車は動き始めた。どうにもせっかちなのは今も昔も変わらんようである。ちょっとした居酒屋に連れて行かれ、そこで話を聞く事となった。
「仕事の話で悪いんやけどな」
そう言って吉野は話を切り出す。穂高は酒で、吉野は麦酒だ。
「承知の通り、俺は軍隊上がりの人間を使ってるんやけどな。ほら俺はすぐに辞めて、ほとんど軍隊の飯を食ってないやろ?」
「うん。まぁそうだな」
「職人の中には戦争を思い出したくねえって、そういうのもいるし、嬉々として何人やっただの話をする奴もいるんや」
「そうか」
「しかしまあ喧嘩の元だから、なんとかならんかと思って穂高教官殿に意見を伺いにきたって訳や」
ざっくりした質問であった。しかし根が真面目な穂高はなんとか答えてやろうと頭をひねる。
「そうだな。訓練せずに戦場に出た場合、どの程度の割合で敵を攻撃して殺傷することが出来ると思う?」
「うーん、どやろ。半数くらいか?殺さへんと自分がやられるわけやしな」
「いや、ほとんどの人間が敵を殺せない。死の淵にあったとしても、何の障害も感じずに敵を殺せるのは極一部の人間だけだ」
ふぅんと吉野が相槌を打つ。
「銃剣を握っていたとして、敵の顔が見えている状態で、その胸を突き刺せる者は殆どいない。殺す殺されるの極限状況においてなお、死を連想させる刃を使えず銃床で叩くことを選択する」
穂高は吉野の目を見ながら続けた。
「重要なのは人間を認識した上で殺せないと言うことなのだ。座った人間の首をはねる事はできる。背中を向けて逃げる敵を撃つ事も容易い。だが顔が見えている状態で殺す事は、とても難しい」
喉を指先でトントンと叩くジェスチャーを見せる。
「そもそも、人間が人間を殺すという事には強烈な忌避感がある。人は人を殺す事ができないようになっているんだ」
「本来であれば出来ないってことやな」
「そうだ。それが訓練によって可能にされ、そして戦争で実行される。心の底で出来ないと思っている事を、行った者の心はどうなる」
「どうなるか。忘れるとか、やった事を正当化するとか、そんなもんか?」
「そうだ。戦争を思い出したくない奴も、嬉々として語る奴も、等しく戦争という非常時の被害者だ。だが、彼らには責任はない。やれと言われた事をやっただけだ。それが全てであるし、そうでなければいけない。そこには個人の意思など介入できんのだから」
酒が入っているからか、いつになく饒舌な穂高は喋り続ける。
「軍人個人が、自分の裁量で人を殺める事などはあってはいけない。ただ上官がやれと言った事をやるだけだ。その責任は、当人には絶対にない」
穂高はクッと酒をあおってから、続けた。
「上手く彼らを救ってやってくれ、私にはできない。吉野、お前にしかできないことだ」
「買い被んなよ」
「組織の一部である事を求められ、それを忠実に行った彼らは報われるべきだ。もう一度社会に戻してやってくれ。彼らにはそれが必要であるし、社会も彼らを必要としている」
「……まぁやれるだけやるわ」
吉野の返答に、穂高はウンと頷いた。しばらくの間の後、吉野は言った。
「穂高、お前はどうやった?」
「私か、さあなどうだったかな。でも私は長いあいだ組織の一員として生きてきた。きっと、私にはもう人の心はないんだろうな。そう思うよ」
「せやろな、心臓が鉄でできてると思っとったわ。きっと穂高は血の代わりになんか別の物が流れとるんやろ」
「なんだと」
「お、鋼鉄のハートも怒る事はあるんか!最新式やな」
「……茶化しやがって。まぁ、なんでも良い」
そんな事を言いながら、ニッと笑い合う。彼らの間では、それだけで何か繋がっている気がするのだ。
「まぁ、だいたいわかったわ」
「ああ、役に立てたなら良い」
「ところで、トリィは元気かいな」
一瞬、雰囲気が変わった。この二人しかわからない空気の流れがぴたりと止まる。つまり、本題はここからという事だ。努めて同じペースで会話は続く。
「健康だ」
「さよか、ほな良いわ。また菓子でも持っていくさかい」
「うん。喜ぶだろう」
「で、何か最近変わった事はあらへんか」
「変わった事とは、何についてだ」
「不意に視線を感じたり。そういうコトだ」
近くの客には決して気取られない声量で、表情も何も変わらずに、吉野はそう問うた。聞き耳を立てているものも居なければ、店主も信頼できる人間だ。安全であると判断したのだろう。
「ああ。下手な尾行をしている者がいたな。部下だったら蹴りをいれているところだ。今は泳がせているが、それがそうか?」
「やっぱりそっちもか。俺の周りもなんか嗅ぎ回っているやつがおるらしいんや」
「やはり、トリィか」
「どうしたもんやろ。拐ったろかな?」
吉野はさらっと、拘束して拉致するという手段の提案をする。だが穂高は首を縦に振らなかった。
「いや。どこの誰かもわからんうちに事を荒立てん方が良いだろう」
「ならどうするんや」
「先制攻撃は良くない、専守防衛だ。私の得意分野だから任せておけ」
吉野は、上半身を仰け反らせて天井を仰ぐ。
「ふうん。まぁ暫くは動かんでおくわ」
「そうだな。それが良い」
「じゃあ何かあったら、また連絡くれや」
「うん。そちらもな」