【第二部】第9話.紫煙ト星空
【第二部】第9話.紫煙ト星空
星が落ちるような空の下。穂高は、中庭で空を見上げるトリィに気がついた。彼は草履を履いて近づいて行き、声をかけた。
「何か見えるか?」
「穂高大尉」
そう返事をしながら、彼女は穂高の方へ向き直った。穂高大尉と呼ぶのは、普段のトリィではない。
「今はベアか、どうした今日は」
彼はそう言って隣に立った。ベアという人格と相対するのは初めて出会った日以来になる。その珍しさに、ついそう尋ねた。
「ありがとう。礼を言わねばと思って、待っていたんだ」
そう言って小さな頭をぺこりと下げた。
「おい、まて。何の礼だ」
すっと音もなく頭を上げると、視線を外しながらベアは口を開いた。
「トリィの事だ。ここで世話になってから、よく笑うようになった。どうも空気が良いらしい」
「うん」
「言葉にすれば変な感じだが、俺はこの子の親にでもなったように感じている。なんとかしてやろうと、色々考えてはいたのだが」
そのような言葉が少女自身の口から出ている事は、一種の奇妙な面白さがあった。
「日本に来てから、ずいぶんとあれの表情が変わった。生きた目をしている」
「良かったな」
「ああ」
少女はくちびるを少しだけ開いて、その間からフゥと大きく一つ息を吐いた。昼間見たような少女の表情とは違う、大人びたそれだ。
「飯を食って息をしている事が、生きているという事ではないんだな」
「いや、それも一つ大切な事だろう。今日がそうだとして、明日も飯を食って息をしているという保証はないのだからな」
「さりとて、それだけで満足できないのが人間か。難しいな」
「うん。私も長いあいだ人間をやっているが、まだわからんよ」
「北部の自治区を頼ることを決めたのは俺だ。だが、それもトリィにとって良い選択だったのか、わからなくなってきた」
ベアは続ける。
「一生大国の目につかぬように隠れて過ごす事が、それがあの子の為なのか。今まで考えて来たことは本当に正しい事なのか」
そうして、ベアはポケットから何かを取り出した。一本の細長いそれを指に挟んだまま言った。
「煙草、良いか?」
「良いわけないだろう」
穂高は、ベアが咥えようとしていた煙草を取り上げて、代わりに棒付き飴を手渡した。
「これでも咥えてろ。今日から禁煙だ」
「……」
まさか取り上げられるとは思わなかったのだろう、ベアは唖然とした顔で固まった。
「私はウナにとりついでやると約束した、だからそれは守る。それがお前達にとって、トリィにとって良い判断であるのかはわからん。身の振り方は自分達で決めろ」
取り上げた煙草を懐に仕舞いながら続ける。
「ただ一つわかるのは、子供の身体に煙草は早いと言う事だ。トリィの身を案じるのなら今日から禁煙だ、ほら全部出せ」
「……」
穂高はベアが何か言う前に、手早くポケットの中の煙草を全部とりあげてしまった。呆気に取られていたものの、ベアはすぐさま抗議の意を示した。
「俺の国では煙草は十歳で呑んでるのが普通なんだよ。だから返してくれ」
「十歳で?」
「ああ、ざらにいるよ。俺も煙草がないと調子が出ないんだ、だからな」
「でもダメだ」
「!」
「うちは禁煙なんだ。居候している限りは我が家のルールに従ってもらう」
「うぐ……」
少女は、しばらく抗議の目を向けていたものの、どうあっても返ってこないと悟って諦めた。ため息を一つ、代わりに手渡された飴を口に咥えるのだった。
「甘い……」
「それはそれで良いだろう。トリィも甘味を欲しているさ」
ベアは、うぅんと曖昧な返事をして空を見上げた。そこにはいつもと変わらない、星空が広がっていた。