【第二部】第7話.悪戯
【第二部】第7話.悪戯
朝夕は冷えるが昼は暑い。
一日の間でも、寒暖差が大きい時もある。この日もそんな一日、庭先での事だった。
「これ」
明継は、トリィに木の小箱を差し出した。
穂高明継は五歳。前戦争の後に生まれた。あんな風だが、明子は明継の躾には厳格であった。彼女はいわゆる武士の娘であり、父も夫も陸軍士官とあってはそうならざる得ない部分もある。
それだけに明継は礼儀や作法には長けたが、やはり五歳の男児とあれば、その心を縛り付けて置けるものではない。
「なに?」
先日買い与えられた深い緑のワンピースを着たトリィが聞き返す。
「またその服」
「気に入っているから良いんです」
「そうじゃなくて、これ。あげるよ」
泥だらけの小さな手の上に乗った、茶色く汚れた小箱。庭とはいえ、その手が汚れすぎていることに少し違和感を感じたが、トリィはそれを受け取った。
「えっ、ありがとう」
彼女はにこりと微笑んでそう言った。小箱はしっかりとその手の内に握られた。
「開けてみて」
「うん」
「はやく」
トリィは明継に急かされて箱を開ける。それと同時に箱の中から何かが飛び出した。
「わっ!」
箱の中には芋虫のような、毛虫のような生き物がいくらか詰められていた。うごめくそれらと目があったような気がして、彼女は慌てて小箱をほうりなげた。
「やった!」
悪戯が成功したことに喜ぶ少年と、信じられないものを見たという顔の少女。
「なんだよ、なにも言わないのか」
明継は、少女が黙って何も言わなくなったことに焦りを覚えたのだろう。慌てて言った。
「なんか言えって」
黙ったままトリィはその場を去ろうとする。させまいと明継がグッと彼女の袖を引っ張った。綺麗な緑の洋服の裾に、ぺとりと彼の手の泥の染みがうつった。
「あっ!」
「あっ」
トリィは何か言いたげな顔をして、それでも何も言ずに踵を返してその場を走りさる。明継はどうして良いのか分からずに「チェッ」と小さく呟いて、地面に放り投げられた小箱を拾った。
その日の夜、明継は進一に和室に呼び出された。様子がおかしい二人を見て、明子が進一に相談したのだ。
「明継」
「は、はい」
明継は進一を恐れてはいない。ただ、彼の事を尊敬していた。
「何があった」
「トリィの、大切な服を汚してしまいました」
「そうか」
進一は明継に手を上げたことはない。それどころか怒鳴ったことも。しかし進一に諭されるのが、彼にはいっとう辛かった。
「それで?」
緊張した顔で、黙って父の言葉を聞く。
「それが目的でそうしたのか。自分は目的を達成したのだと言えるか」
「違う、僕は……」
と言いかけて、口の中でモゴモゴ言った。
「そうか、意図ではないのだな」
「はい……」
「ならどうすればいい?」
「トリィに謝ってきます」
一呼吸あけて、父は言った。
「うん、それが良いな。服の汚れについては明子に相談してみろ」
「はい」
そう返事をすると、明継は素直に明子に相談に向かうのだった。明くる日、朝食の折に皆が集まった時、トリィの洋服には赤いものがくっついていた。
ご機嫌な表情で朝食を頬張る彼女に、進一は聞いた。
「何かついているな」
「はい。汚れた洋服を明継くんが直してくれたんです」
「そうか」
笑顔の明子が口を開く。
「洗ってもやっぱりちょっとシミが残ったから、刺繍で隠したのよ。明継のアイデア」
「……てんとう虫」
明継は、それだけ言うと無言で朝食に向かい合った。ぶあいそな顔で、黙々と朝食を口に運んでいる。
進一は、いつか忘れていた男の子というものを明継に見た。そして、ふっと口元を緩めるのであった。
……
穂高が屋敷を出る頃、その姿を目で追う者が二人いた。帽子を深くかぶって巧妙に隠しているが、明らかに彼を見ている。
二人の男は、穂高の背中を見送ると、それ以上は何もせず、何事か呟いた後その場を去った。