【第二部】第6話.一張羅
【第二部】第6話.一張羅
「服が欲しい?」
ある休日の事だった、穂高は明子の言葉に思わず聞き返した。
「ええ。女の子ですし一張羅ってわけにはいかないでしょう」
二人の視線の先には、畳の上に小さく正座しているトリィがあった。その表情は、小さな子供が父母に叱られている時のようなものであった。よく見れば、その服装は初めて訪れた時のものと全く変わらない。
「そうか、服か。盲点だったな、なんともならんのか」
「生地はありますから仕立てる事もできますけど。彼女の場合は洋服の方が良いのではないかしら」
トリィはバツが悪そうに座ったままだ。
普段は明るくて良く話をする少女だが、何かにつけて遠慮する節がある。
「そうだな」
穂高はトリィに「お前はどう思う」と聞きかけて、言葉を呑み込んだ。あの様子では、口が裂けても服が欲しいなどと言い出す事はできんだろう。
「百貨店を見てみるか」
「えっ!」
穂高の言葉を聞いて、明子が大げさに声を出した。こほんと咳払いをして彼女は言う。
「そ、そうね。舶来の洋服なんて見るならその方が良いかもしれないわね」
「うん」
もう明らかにそわそわしている。頑張って平常心を保とうとしているようだが、口元は緩み切っていた。どうやら百貨店に行くのがよほど嬉しいらしい。
「では明継にも準備をするように言ってきます、進一さんもお願いしますね」
「わかった。ところで本人も現地に行く必要があるか?」
「何言っているんですか。採寸もあるし、好みもありますから、本人に見てもらわないと意味がないじゃありませんか」
「それもそうか……。ならトリィにも準備させておいてくれ」
「はい」
大征時代に入り、人口は増加し、さらに所得に余裕があるものが増えてきていた。
物と金が生まれたために個人での消費の気運がいよいよ高まってきた。そんな消費者達に応えるように、東京だけでなく地方都市にも百貨店が登場するようになったのである。
穂高の知る史実とは少しずれているのだが、この札幌にもそんな時代の風を受けて百貨店が新たに開店したばかりであった。
この頃、百貨店に行くという事は非日常の特別なお出かけであり、現在とは少し感覚が違うのだ。
……
「こちらでお履物をお預かりします」
可愛らしい割烹着を着た少女が、入り口でそう声をかける。正装に身を包んだ穂高家一同四名が、履物を預けて入店した。
西洋式の鉄筋造の四階建て。ガラス張りのショウウインドウが並び、どこを見回しても丁寧に整頓された商品たちが、こちらを見つめている。
これは画期的な事だ。従来の座売り式ではなく、消費者は自由に店内を歩いて、様々な業種の違う商品を見て回る事が出来た。
そうする事で、一つの店舗で必要な物が全て揃うという利点もあったし、何より綺麗に飾られた商品たちを眺める事が購買意欲をそそるのだ。
「まずはトリィさんのお洋服を見ましょうか」
建物の立派さに呑み込まれて、トリィと明継がきょろきょろとしていたところへ明子がそう提案した。いつまでも入り口で突っ立っているわけにもいかないので穂高も同意する。
「こんなのは如何かしら」
「な、なんでも良いです!」
「そうねトリィさんなら何でも似合いそう。粉雪のような白い肌だから何をのせても映えるのよ」
「そんな……」
あれでもないこれでもないと、明子がトリィを着せ替えて遊んでいる。
当人もまんざらではない様子でそれを受け入れているようだが、なにを着せても「良いです」の一点張りだ。いつまで経ってもそれが終わらないので、明継も飽きているようであった。どこで覚えたのか「軍人は服の方へ身体を合わせろと言われるんだ」なんて言って斜めに構えている。おそらく祖父の入れ知恵だろうな。
しばらく着せ替え人形に甘んじても、どうも煮え切らない様子のトリィに穂高は言った。
「妙な遠慮をするな。それに安いものじゃあないんだ、お前が本当に欲しい物を選んでくれんと金を出す私が浮かばれんよ」
突然穂高が割って入ったので、トリィはビクッと肩を震わせたが、すぐに気を取り直した。「じゃあ」とおずおずと指し示したのはフリルのついたワンピースである。レトロな濃い緑色をしているそれは、なるほど彼女には似合うだろう。
「やっぱり、だめですよね」
「いや、良いんじゃないか。明子、試着させてやってくれ」
「はい、きっとぴったりだわ」
そう言って二人は女中を伴って、奥へと消えた。明継と穂高は再び待ちぼうけである。
しばらくすると、奥からしずしずとトリィが現れた。当人は俯いているが、隣の明子はこの上ない笑顔である。
「どうかしら」
そう言って明子がトリィを私達の前に突き出した。透き通るほどの白い肌に深い緑が映える。図らずとも見事な対比であり、その人の存在感をしっかりと浮き立たせている。
「かわいいじゃないか」
そう言って褒めてやると、その言葉を聞いたトリィがぱっと表情を明るくする。
「ありがとうございます!」
「うん。丁度良いのが見つかってよかったな」
「はい!」
トリィは洋服をいたく気に入ったらしく、買った服をそのまま着て帰ると主張するので、言う通りにした。帰りがけ、履物預かりの女中が微笑んでいたところをみると、そんな使い方をする人間は珍しいようである。それでも当人はどこ吹く風であった。
……
暗くなり始めた街を並んで帰る。先を歩く子らの背中を目で追いながら、ゆるりと歩く。
石橋の両側にはガス灯が煌々と輝いている。
「お食事までできるなんて、百貨店ってすごいのね」
「時代の進歩を感じるな」
「ええ、まるで外国みたいだったわ」
明子はそう言って、百貨店で見たものを思い返すように空を見上げた。しっとりとした紫が空を彩っている。
「そうだな」
前世の記憶を持つ穂高ではあるが、明而に生まれてから、この大征までの時代の進歩の速さには驚かされてばかりだ。特にこの日本という国は、蛹から蝶になるような劇的な変化である。
「これからもっと進歩するのかしら。想像もつかないけれど」
「技術の進歩は止まらないだろう」
「ついていけるかしら」
「いけるさ。人は進歩する生き物だ」
ふっと笑って、穂高が言った。
「年寄りみたいな事を言ってると、色眼鏡をかけて自動車を乗り回している吉野に笑われるぞ」
「ほんとだ」
星の光より街の光が多くなるのはいつだろうか、そんな事を考えながら、彼らは時を惜しむようにゆっくりと歩いた。