【第二部】第4話.甘イ粥
【第二部】第4話.甘イ粥
「おはようございます」
「うん」
庭を掃いているところで、縁側を雑巾掛けするトリィに挨拶をされて、穂高は短く返事をした。大征二年、六月十二日午前五時三十二分。この少女を預かって数日になる。
この頃は朝晩には冷える事もあるが、この地は内地に比べて過ごしやすい季節である。前世でもいろんな駐屯地を転勤して回ったが、中でも初夏の北海道は特に気に入っていた。
「家には慣れたか」
「はい。おかげさまで」
トリィはすぐに環境に適応したようであった。息子や家内とも、どうやら上手くやっているようである。笑顔を見せることも多い。
「ところで、あれからベアを見かけないが、そういうものなのか」
「あ、はい。ベアとは話はしますけど、あんまり普段は人前に出ないです。表に出ると疲れるからって」
「そうか」
穂高の認識では「二重人格」という話はあまりに突拍子も無いことだ。今でもこの少女を前にして事実かどうかはわからない。
しかしあの時の、ベアと名乗る者の真に迫った表情と所作は、作り物だと切って捨てる事は出来なかった。
「彼になにか御用事ですか?」
「いや、ないよ」
石の間から見える雑草の緑を、引き抜いて捨てた。夏を前にいよいよとばかり草木も勢いづいている。トリィはそうですか、と当たり障りのない返事を返しながら続けた。
「あ、そういえば、あの後ベアとどんな話をしたんですか」
雑巾を絞り、汚れた水を桶に返しながらトリィが言った。ひらけた額には汗が光っている。
「君は覚えておらんのか」
「え、あ、はい。ベアが出ている時はほとんど何も覚えていないんです。普段は後でベアが話をしてくれるんですけど、今回は何も教えてくれなくって」
「そうか。いや、ならベアが話さぬ事を私の口から伝えるのも良くは無いだろう」
おもむろに穂高はトリィに近づいて、その小さな掌から絞ったばかりの雑巾を摘まみ上げた。右手を逆手に、左手を順手で持って両手で雑巾を捻る。灰色の水がぼたぼたと桶に落ちた。
「雑巾にも絞り方がある。正しい方法でなら無理な力を込めずともこの通りやれる」
トリィは穂高に礼を言うと、見よう見まねで同じように雑巾を絞ってみた。先程よりも手ごたえがあったようで、驚いた顔を見せた。
「私も誰かに教わったのだ。お前がいつまで居るかわからんが、ここの人間からも何事か学ぶと良いだろう」
「はい!ありがとうございます」
「うん。さあ、拭き掃除が終わったら朝飯だぞ」
……
「「頂きます」」
ダイニングテーブルと椅子。この時代には珍しい取り合わせである。
木目のテーブルに、白い皿に注がれた白いお粥。ふんわりと甘いような牛乳が香った。
「お母様、これは」
「トリィさんの言うように作ってみたのだけれど。お口に合うかしら」
「白い汁のお粥は何かへんな感じがする」
明継が不平を口にしながら、匙で粥を掬って見せた。牛乳と白米それに砂糖でこしらえた甘い粥である。それを恐る恐る口に運んで言った。
「美味しい……けど、甘いお米って不思議な感じ。うまく言えないけど、不思議です」
米が甘いのは不思議か。しかし、おはぎだって甘いし米は何とでも合うのだろう。ふいっと視線がトリィに集まった。若干、緊張気味にそれを口にして、感想を述べる。
「美味しいです!小さい頃にお母さんが作ってくれたお粥を思い出しました」
「ルシヤではいつもこれを食べているの?」
「昔、お母さんと住んでいた時は良く食べました。白いご飯で作ることはあんまりなかったですけど」
「そっか」
とりとめもない会話をしながら明継とトリィが粥をすする。その姿を見て、明子は自分の匙を動かすのも忘れてニコニコと笑顔を向けていた。
「本当の兄弟みたいだわ。女の子も欲しかったし、ずっと家に居てくれても良いのよ」
明子らは、トリィは吉野の内縁の妻であるアナスタシアの親戚だと聞かされていた。トリィの身の上に、やむにやまれぬ事情があって預かる事にしたのだ、という話だ。穂高が「事情は詳しくは聞くな」と言い含めておいたら、何を勘違いしたのか明子の中ではトリィは悲劇の少女のような境遇になっているようであった。
あながち間違いではないのだが。
「あ、ありがとうございます!嬉しいです、でも……」
「遠慮しなくても良いわ。ほら空いている部屋がいくつもあるし、丁度良かったのよ」
「あの、その」
言葉に詰まる少女に、穂高が助け舟を出した。
「トリィにも事情がある。明子、あまり詮索してくれるなよ」
「ああ、私ったら。そうよねごめんなさい」
明子の謝罪を受けて、トリィは顔を上げて言った。
「いえ、本当に嬉しかったです。そんな風になれたらどれだけ良いか」
明子は何か言いかけて、何も言えなかった。言葉の代わりに、微笑みで返したのだった。