【第二部】第3話.熊
【第二部】第3話.熊
「俺はベアと呼ばれている者だ、俺が大尉殿の疑問に答えよう」
トリィと名乗ったはずの少女が、今度は声色を変えて自分はベアだと言う。
「待て、トリィという名は偽りか。お前が何を言っているのか要領を得ない」
「それも話そう」
ふぅと一つ息を吐いて、ベアと名乗る少女が続ける。その姿は、とても年相応の少女には見えない。
「俺は、トリィの中にいるもう一人の人間だ」
「もう一人の、だと」
「そうだ。穂高大尉は識者の自我をどう考えているだろうか。自分は前世の記憶を持つ穂高進一だと、そう考えているのか。それとも、前世のなにがしの生まれ変わりだと考えるのか」
「ふん。考えた事もなかったな」
「でしょうね。上手く統合されている、どう考えようが、それがあなたという個なわけだ」
声のトーンが一つ落ちて、静かに続けられた。
「俺とトリィは上手くいかなかった。一つ身体に、二つの魂。まぁ、心が二つあるのだと思い込んでしまった。今世を生きるトリィの中に共存する形で、前世のベアが存在する。それが俺たちの真実になった」
「共存する二つの人格」
「そうだ。俺たちはお互いの存在を認めている。原因ははっきりとはしないが、調整施設には俺のような存在もいくらかいた」
吉野はすでに話を聞いていたらしく、どこか上の空だ。
「つまり、お前は過去生がベアという独立した人格になっている。そういう事か」
「そうだ」
「そしてトリィという人格と共存している、いわゆる二重人格だと」
「そうだ、言う通りだ」
「うん。そうか、そういう事もあるのか」
穂高は、自ら以外の他の識者については、ほとんど知らされていない。まともに話した事があるのは、ルシヤのルフィナ・ソコロワと清国の観戦武官くらいなもので、彼らは人格が乖離するような事はなかったようであった。
「ルシヤの調整施設での目的の一つに、前世の記憶の定着があった。俺たちの場合は、トリィの存在を消して前世の記憶を持つベアという人格に統合する。そうすれば、必要な情報、即ち前世の記憶をルシヤ軍が引き出しやすいという事だ」
「成る程な」
「それが、俺が調整施設を脱走した動機だ。俺はトリィを生かしてやりたい。俺のような過去の残骸のせいで、普通に生きる少女の人生が捻じ曲がることはない」
ベアは苦虫を噛み潰したような顔で、視線を左の虚空へ向けた。
「うん。わかった」
「それで、どこまでやろうと言うのだ。どこに着地点に見ている」
「俺の目的はトリィの保護と、そして俺という人格の消滅だ」
「なに?」
ベアは自らの消滅、いわば死を目的に据えているというのだ。トリィという者の為に尽くして消えると言い切っている。
「人間の記憶というのは、思い出さなければ薄れていくものだ。どこの軍隊にも利用されぬような場所に逃げ延びて、俺は記憶の底へ沈もうと思う」
「それを皇国陸軍所属の私に言うのか。本当にお前が識者であるならば、私は日本軍の益ために捕らえるかも知れん。そうは考えなかったのか」
「当然それも考えた、これは賭けだ。あなたに協力して貰えるかどうかは。俺の最終目的は北加伊道北部の自治区。どの国にも干渉されず、自治を認められた区域。そこならば日本軍にもルシヤ軍にも取り込まれずに、生きる事ができる」
トリィ。いや、ベアはその幼い容姿に見合わない皺を眉間に寄せている。
「穂高大尉。あなたは自治区を取りまとめるウナという男にツテがあると聞いた。どうか俺を、トリィを引き合わせて欲しい」
「……」
「たのむ」
穂高は静かに目を閉じた。
一介の陸軍士官として日々を過ごしていればこれだ。厄介事の方から向かって来るのだから仕様がない。一呼吸置いて目を開いた穂高は、吉野に向かって言った。
「はぁ。しかし吉野、お前は本当に厄介事に首を突っ込むのが好きだな」
「アホ。俺は穂高と違って人間の心があるんやないか。こいつの話を聞いて、考える事はなかったんかい」
「私には人間の心がないか?」
「お前の心臓は鉄ででもできてるんやろ」
「ふん。そうかもな」
視線が少女に集まった。
「話はわかった。それで、私がお前を助けるメリットを聞かせて貰おう」
「戦火を防げる。この極東までを巻き込む大戦争を防ぐ事ができる」
「戦争だと」
翠の瞳が、ゆらりとゆれた。
「俺の。ベアの記憶には各国のパワーバランスを崩すような物がある。俺はこれをどの勢力にも渡さず抱えて消えていくつもりだ。もし、どこか一つの勢力がこの力を手にすれば世界の均衡は崩れ、全てを巻き込んだ大戦争が起こるだろう」
「世界大戦」
「そうだ、遅かれ早かれ世界大戦は起こる。あなたの過去生の史実通りではないかもしれないが、いずれヨーロッパは連鎖的に戦火が広がり火の海になる」
畳の下から、ひやりとした空気が流れてくる。
「それは良い。だがそこへ歪な時代錯誤な遺物が入り込めば、いよいよどれだけの犠牲が生まれるかわからない。この世界の人間は、まだこれを制御できるだけの知恵が備わっていない。世界の終わりが来る」
まるで最終戦争を見てきたかのように語るベアは、そのまま話を続ける。
「技術の進歩は誰にも止められない。だが、それを使いこなすだけの知恵が、そこへ伴っていかなければ。炎は敵だけではなく、自らの身を灼くことになる」
「だから」
「だから俺は、それが分かっているから、全てを秘匿したまま消える。心残りはトリィだけだ。この力がどこにも利用されぬように。どうか、俺に協力してくれ」
戦争の鍵になる知識とは、随分壮大なことを言い始めたものだと、穂高は少し眉を動かした。
「にわかには信じ難い話だな」
「全てを信じて貰わなくても良い。ただ、俺はあなたを陥れるつもりはない」
それだけ告げるとベアは口を閉じた。和室に静寂が訪れる。吉野とベアの視線が穂高に集まった。
かすかな衣擦れの音すら聞こえそうな空気、それを終わりにして穂高は口を開いた。
「二ヶ月後、私はとある事情により自治区でウナに会うつもりだ。それまで身柄を預かろう」
ぱっと二人の表情が緩む。釘をさすように穂高は続けた。
「ただし、話を全て信用したわけではない。ただ客人として預かるだけだ、ウナとの接触の後は私は関与しない。また妙な動きをした場合は、その場で拘束させて貰う」
「十分だ。ありがとう。本当に助かる」
「うん。では余っている部屋を一つ割り当てよう。それと明日からは五時起床だ。朝飯は屋敷の掃除の後になる」
少女は、はい。と二つ返事で了承する。話がまとまったと思ったところで、吉野が口を挟んだ。
「おいおい。丁稚奉公じゃないんやから使ってやるなよ」
「使うつもりはないが。当家では家事は総出ですることになっている」
「は、穂高も掃除に洗濯までするっちゅうんか?」
「当たり前だろう。自宅の面倒も見れん者が、外で他人の面倒など見れるものか」
吉野は商家に生まれ、下働きが雑用一般を引き受けているのが当たり前であった。家の主人が掃除に精を出すなどというのは、彼にはわからない世界である。
「ふぅん……ま、ええわ。トリィの事は任せたで」
「わかった」
そうして穂高の家に、一人の居候が増えたのであった。