【第二部】第2話.亡命ノ少女
【第二部】第2話.亡命ノ少女
「亡命、亡命と言ったのか。この子供は」
穂高は声のトーンを落としながら、吉野の方を見て言った。聞き違いか、子供の戯言か。真意を確かめずにはいられない。
「せや、亡命してきたらしいで」
「らしいで、とは。簡単に言ってくれる。それで少女はどこで拾って来たのか、具体的に聞かせてくれるんだろうな。私にこの話を聞かせたと言う事は、わかっているのだろうな」
事と次第によっては、軍に報告せざるを得ないだろう。吉野もトリィと名乗るこの少女も、穂高がこの場で拘束しなければならない可能性もある。当然だ、彼は現役の陸軍の将校なのだ。
「承知の上や」
真面目な顔で吉野はそう言って、少女との出会いを語り始めた。
「俺が、銃後会が小樽の、北加伊道の港湾を取り仕切っている事は知ってるよな」
当然知っている。
五年前の戦争で結成された銃後会という組織であるが、それは戦後も解体される事なく残り、以降の北加伊道に大きな影響力を与える事になった。
避難のために札幌に過剰に流入した人々が、元の土地に帰ることも出来ず、職を探して日雇人夫となった。それら労働力の受け皿になったのが銃後会である。
銃後会は陸軍とパイプを持っていたために、軍の払い下げ品を市場に流す事で利益を得ることができた。また小樽の港での港湾作業員の手配を一手に担って、勢力を拡大して行ったのだ。
また戦後の混乱の最中にあった治安の維持に置いても、表に出られないような人間達を実力行使でまとめあげる事で、一種の秩序がもたらされたのだった。
彼らを取り仕切って宿所を作り、復興の為の労働力を確保し続けた銃後会は、もはやこの地に無くてはならないような組織となっていた。
「うん。小樽の港湾人足は、全て銃後会の息がかかっていると聞いている」
「そや。当然何かあれば俺の耳に入って来るようになってんねん。それでこの間、密航者が見つかったって聞いてな」
「この子が密航者だというのか」
「ああ、まぁ密航者なんて割とよくいるんよ、表に出ていないだけでな。それこそ子供から老人まで」
穂高はふうんと息を吐いた。
よくいる密航者の処遇については少し気になったが、聞いてしまえば関与せざるを得ない。知らぬ方が良い事もあるだろうと、一人納得した。
「でも今回のコイツは様子が違った。話を聞いてみるとやな、なんとルシヤの軍の施設から逃げて来たって言うんや」
「……何?」
穂高が少女の方へ視線を向けると、彼女は黙って首を縦に振った。ルシヤ軍から脱走した者を匿うなどと、一介の将校に判断できる事ではない。
「それが本当ならば事だぞ。私に上に報告するなと言うのはどういうことか、納得のいく説明があるのだろうな」
こんな事が知られれば国際問題になる。
いやしかし、このような年端もいかぬ少女がルシヤ軍に所属しているとは、どういう了見なのか。
穂高が吉野へ強く詰め寄ると、彼は本人に聞いてみろとばかりに手を振った。
「トリィくん、私は日本陸軍将校の穂高進一大尉だ。ルシヤ軍の施設とは?わかる限り君の置かれていた状況を知りたい。状況が把握できれば、私にも協力できる事があるかも知れない」
穂高は改まって、少女に向き直りそう言った。トリィと名乗った彼女は、少し何か考えるような表情を見せたが、意を決して口を開いた。
「わたしは、識者です。ルシヤ軍の調整施設と呼ばれる場所にとじこめられていました。そこから逃げて来たのです」
「うん」
驚いた。識者だと言うが、彼女には人生経験の長さからくるような捻くれた様子がない。
端的に言えば、年相応の少女に見えるのだ。
「施設から逃れたわたしは、隠れて列車に乗って、船に乗って。とにかく国から逃れようと思って夢中でした。気づけばこんな場所に座っています」
「うん」
「わたしは識者です。軍はわたしを狙っています。どうか、どうかルシヤから見えない場所に隠して下さい。穂高大尉、お願いします」
穂高はジッと、少女の目を見て話を聞いた。その話を疑うわけでもなく、諸手を挙げて信用わけでもなく、ただその言葉をそのままに聞いていた。
「……少し落ち着きたまえ。まず、いくつか分からないことを質問したい。ルシヤ軍の調整施設と言ったが、それはどんな場所の事を言っているのかな」
「は、はい」
二つ返事で助けてやると言わなかったので焦っているのだろうか。少女は一つ呼吸を置いて再び話し始めた。
「ルシヤは、識者を一ヶ所に集めて訓練しようとしています。わたしたちは、調整施設で薬を飲んだり訓練をしたりしていました」
「うん」
明而の日本とルシヤの戦争は、初めて識者が使われた戦争であった。日本軍の穂高やルシヤ軍のルフィナソコロワもその中の一人である。そして一定の評価を受けた識者という存在は、それ以降各国で研究が行われている。ルシヤでは国内外から徴用しているという話は聞いた事がある。
「それで逃げてきたのです……」
「そうか。それは大変だったな」
筋道は通っている、が。
しかし彼女が本当に施設に徴用されていたとしても、国外に逃亡するということを選択するものか。それ以前に食うには困らなかっただろう施設から、危険を冒してまで脱走するだろうか。
見た目からは想像できないが、彼女がルシヤの諜報員である可能性もある。見極める必要があるだろう。
「それで何故逃げ出そうと思ったのか」
「なぜって、施設が嫌だったから……」
「逃げれば追われる。施設にいれば、生きるのに必要な物は手に入ったのではないのか」
「それは、そうだけれど」
脱走してやろうというならば、相応の動機と、そして決意を持って挑んだに違いない。
そうでなければ、惰性で生きられる環境から人間は逃れる事は出来ない。今の境遇をぶち破って飛び出そうというからには、囚われている小さな世界を壊すだけの動力が必要だ。
彼女からは感じられないのだ、そのような強い心の動きが。だが、どうも騙してやろうというような悪意も感じない。
「命を賭けて脱走して、ここまできたという事ならば、相応の理由があるはずだ。嫌だったからなどという理由では、人はそう簡単に動けはしない。何か隠している事はないかな」
「わ、わたしは、その……」
「本当に君が困っていると言うのであれば、隠し事をするのは得策ではない。不信がある人間に手を貸すほど、私の心は広くないからな」
「それは、その。命の危険を感じたのです!このまま、この場所にいれば殺されてしまうと。だから逃げた、逃げようと思った!」
「命の危険か。それは具体的にはどのような事柄の事を言っているのか、詳しく教えて貰えるかな」
「……」
少女の唇が小刻みに震えて閉じた。
第三者から見れば、大の大人が少女をいじめているような、全くみっともない図である。
穂高は、なるべくなら同期の友が連れて来た人間の言う事を信じてやりたいと考えている。それでも、三十分前に出会ったばかりの、識者だと名乗る少女の言うことを鵜呑みにするのは危険に思えるのだ。
確信に至る亡命の動機に関して、上手く聞き出せずにいるところに、吉野が割って入った。
「はん。茶番はもうええやろ、本人に語らせろや」
「……なに?何を言っている」
話に割り込んできた吉野が、妙な事を言った。本人という言葉の意味を、噛み砕けないでいるところで、トリィが口を開いた。
「さすがに日本軍の将校は身持ちが固いと見える。トリィに任せておけば良いと思ったが、そうもいかないか」
少女がその口で、そう言ったのだ。彼女の顔つきは先程までと別人のように違っていた。
何が起こったのか、穂高には瞬時に判断することはできなかった。