第12話.鷹ノ目
第12話.鷹ノ目
夕刻。
日が西の空に傾きはじめた頃、幸い天候は回復した。
この時間から出発では日が暮れてしまうと言うので話し合いの結果、今日中の応援の要請は断念した。
明朝、日の出と共に池口巡査の部下二名の警官が警察署へ向かう段取りとなる。
「明日まで天気が持ってくれれば良いが。それが叶わぬなら今すぐ来いよ……」
「そうだな」
独り言に相槌を打つものがいた、池口巡査の部下警官だ。
「マタギと言うのは、皆その年でもそんなに精神が強いのかな」
「あ、いや。どうでしょうか」
「名乗っていなかったよな。僕は二上二等巡査だ。僕でも震えておるのに、進一君は凄いよ。ヒグマに来いと言う」
「雪が降らなければ足跡を追って行けますから。襲って来いと言うわけでは」
「そうか。でもそれが言える人間はそうは居ない。僕も制服を着て居なければ逃げ出しているかもしれない」
「それは……」
「冗談だよ」
その時ぬっと窓の外に黒い影が現れた。何度と見たヒグマだ「出たぞ!」と誰ともなく叫んだ。
その声を合図に、男達が総出で外に出た。視界の効く今こそ、あいつを仕留めるチャンスなのだ。
山の方へ駆け登って行く影。
「追うぞ!武器を持った者は半分ついて来い。残り半分は役場に残り警戒せよ」
池口巡査の発言に同意した。留守を狙われる可能性もある、良い判断だ。
鉄砲を持った者は全員追跡に加わった。後は槍やら刀やら刃物を持った者たちだ。私と爺様も追跡組である。
「追うぞ」
山狩りが始まった。
……
柔らかな雪は、しっかりとあいつの足跡を残していた。点々と続くそれは、山頂に向かって一直線に伸びている。いざ追いかけようとした時に、私は待ったをかけた。
「巡査、少し待って下さい」
「どうした」
「ヒグマには優れた感覚があります。我々の動きは筒抜けでしょう。真っ直ぐ追っても捕らえるのは難しいかと」
「うむ。では、どうすれば良いか」
「少数を別動隊に。あいつの側面に回るよう、挟み撃ちの形を取りましょう」
一瞬間が空いて、返答があった。
「良い案ではある。だが回り込む、とは言っても奴の位置が分からなければ机上の空論ではないか」
「わしならできます。おおよその位置は予測できますし、この辺りの地形も良く知っていますから」
付近の山々の地形は、この三年散々歩いて熟知している。目を瞑っていても歩ける程だ。
しばらく目を閉じて考えた後、池口巡査が采配する。
「わかった、別行動を任せよう。お供には……そうだな、二上二等巡査をつけよう」
「わかりました」
「了解しました。進一君、よろしく頼むよ」
二、三言葉を交わした後、別働隊の私達(私と二上巡査の二名だけだが)は、足跡を追う本隊から離れ、別のコースから尾根を目指して歩き始めた。おそらくヒグマはそちらに逃げるはずだ。
「ふぅぅ……」
深呼吸を一つ。
焦る気持ちを落ち着けながら、つとめて冷静に歩を進める。後ろから「おおい」と声がした。ふと振り向くと、少し離れて二上巡査が慌ててついて来ている。
ええい、急ぎすぎだ!周りを見れないでどうする。冷静にと考えていたがどうにも気持ちの昂りは抑え切れていないらしい。
「はぁっ、はぁっ。進一君、すまん。もう少しゆっくり歩いてくれないか」
「すみません慌ててしまって。少し頭を冷やします」
両手でぎゅっと雪を掬い上げると、洗顔をするかのように顔に雪をぶつけた。頭の奥まできぃんと冷たく冷やされる。
「行きましょう」
「ああ」
空を確認すると、すでに夕暮れ。そう遠くないうちに冷たく暗い夜が訪れるだろう。暗闇では不利だ、日の光のあるうちに決着を付けねば。
それからしばらく歩いたころ、斜面の岩陰にヒグマの姿を認めた。後ろの二上巡査に手で合図を送り、足を止める。
彼は「どうかしたのか」と私の隣に立ち、小さな声で問うた。
静かに遠くのヒグマを指し示す。
「見つけました」
「何をか。ヒグマか、どこにいる」
前に転げぬように足場を確認して、もう一度指を指す。
「あれです。正面の岩場で背中をもたれて休んでおります」
それは距離にして500メートルはあるだろう。追われて体力を消耗しているのか、それとも反撃の機会を伺っているのか。あいつは殆ど動く事なく、追跡組の方向を向いてじっとしている。
「どこだ、僕には見えないが。お前には見えているのか」
「はっきり見えています。向こうもまだこちらに気づいていません。風下より忍び寄り、射程内に捉えましょう」
「……ここからはっきり見えるとは。鷹の目だな」
私もそう思う。普段は気にする事はないが、この身体は目が良すぎる。
改めて二上巡査が言った。
「いや、そうか。ここからでは遠すぎるだろう。どのくらい寄れば良い」
「この鉄砲では五十……いや三十メートル」
「近いな至近距離だ。危険では無いか?」
「危険はありますが、ヒグマの内臓は分厚い骨と筋肉に守られています。並の銃では威力が足りず貫通しませんから」
二上巡査は「ふむ」と一つ白い息を吐いた。背負っている鉄砲を肩から降ろし、私の目の前に出す。
「これならどうだ」
その鉄砲は銃身内部に螺旋状の溝が彫られている、いわゆるライフルである。
「僕の鉄砲はお上から獣害対策に貸し与えられているのだが、陸軍で使っている小銃と同じ型のものだそうだ」
ライフルから放たれる弾丸は、滑腔銃身の散弾銃のそれに比べて直進性が高いので、遠距離での命中精度が優れている。
また、普段からよく整備がされているのだろう事が、この小銃からは伝わってくる。これはお飾りではない使う為の武器だ。
素直な感想を伝える。
「良く手入れされていますね。これならば三百でも命中が見込めるでしょう」
「そうか、なら預けよう」
「二上巡査?」
両手の平をこちらに向けるジェスチャーをしながら、二上巡査は言った。
「悔しいが僕の目では見えない、だから命中は望めないだろう。この距離でも手に取るように見えると言う君に賭けよう」
「……わかりました」
手渡された小銃は、ずしりと重みがあった。
託された小銃を持ったまま、黒いあいつの巨体に対して側面を取るように移動する。
ヒグマが正面を向いている状態では、脊髄や心臓などの急所に命中させるのが難しい。銃撃が有効な面積が少ないからだ。逆に射手に対して、横を向いている時が一番狙いやすい。
動きを気取られぬように、射線が取れる位置に移動する。標的の300メートル程手前、立木の横に位置を取った。他所に気をとられている羆は、まだこちらに気がついていない。
口からは静かに白い息が漏れている。