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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

放任的な大樹はドングリを貪り食う。

作者: 青咲りん

 いったい、なんのために世界は存在するのだろうか。

 そんなことを考えたことはないだろうか?


 友達と喧嘩した夜。

 仕事に失敗し、寝坊した昼下がり。

 借金を抱えて路頭に迷った繁華街の夜。


 我々はいつでも、それについて疑問に思うことができるし、その時間も機会もあった。

 そして大概は『生きているなんて無意味なことだ』という回答に行き着いてしまう。


 確かにそうだ。

 この世界に生きている意味はなく、むしろこの世界の存在そのものにも理由なんて存在しない。


 ただ、あるだけなのだ。

 誰の意思にも関係なく、ただあるがままにあるだけなのである。


 ――この世界は、パターンの組み合わせで出来ている。

 ゴチャゴチャとした事象のおもとゃ箱の中から、好きなものを取り出して組み合わせる。


 こうして世界が出来上がる。

 だが、この世界は一瞬で完結してしまう。

 世界には時間の流れがなく、ただ一瞬だけが絵画のように切り取られ、それで完成して完結して終わりである。


 これを世界点と呼ぶ。

 または世界ドングリと呼ぶ。


 我々が普段時間だと知覚しているのは、このドングリを拾った順番を覚えているだけなのである。

 ドングリAを昨日として、次に拾ったドングリBを今日と読んでいるに過ぎない。

 実際には全く別の世界なのに、そう呼称しているだけなのである。


 では、そのドングリは一体どこから落ちてきたのか。


 答えは大樹である。

 名もない大樹。

 我々の魂を生産し、ドングリという無限にあるパターンを組み合わせて作り上げた箱庭に、その生産した魂を送り込んでいる大樹が、その世界点を作っているのだ。


 大樹から分離した大樹の種が世界のあらゆるものの素材となり、意識を与える。

 種が芽吹くように、意識に自我が芽吹く。

 自我が芽吹いたそれは、生命となって世界の点と点を結ぶのだ。


 謂わば八百万の神々(アニミズム)である。


 そして、その結んだ経験はやがてその自我が死んだ時、大樹に凱旋し、その経験を大樹に蓄積していく。


 時間とは、大樹の種子が見た夢の世界なのである。


 そうやって大樹は種子を通してあらゆるパターンの世界で生きた経験を蓄積していく。

 その蓄積された経験はやがて大樹の栄養となり、樹を成長させる。


 大樹が存在するためにパターンというガラクタをかき集めて箱庭を創り、そこに自分の種を撒いて栄養を補給する。

 我々に意識があるのは、大樹が存在を維持するための、いうなれば我々で言う生命維持活動の一環なのである。


 そういった特性があるため、宇宙というものは多次元的に存在し、かつ複数存在する。

 複数と言っても、大樹には時間の概念も距離の概念もないのだから、同時期に同じ場所に全く異なったものが無限個浮いているのだ。


 かの有名なヴォイニッチ手稿には、こんな一説がある。


 『我々動物というものは植物の奴隷であり、我々はそれを自覚しなければならない』


 これは単純に、自然破壊に対する警告文として読み取ることもできるが、また別の解釈が可能である。

 それ即ち、神道で言うところの神人合一に近い話である。


 神人合一という言葉は、しばしば魔術にも使われる言葉である。


 我々の意識とは無意識下ではつながっており、繋がっているために我々の意識は一つに統合されるのである。

 つまり、私=貴方。貴方=私。私はあなた達であり、あなた達も漏れなく私と同一の存在である。

 目の前の机も、コップも、紙も、スマホも、虫も、時計も、何もかもすべてが大樹から生み出されたドングリの一部であり、その部品の一つ一つが私でありつつ私達であるのである。


 この考え方はパラレルワールドの応用として考えるとわかりやすいだろう。


 例えば、目の前の石ころだった場合の貴方と、この世界で人として活動している場合の貴方。これが同時に重なって同じドングリの中で生活しているのである。


 ――と、まあそういうわけであり、この世界が存在しているのは偶然的かつ必然的なものであり、ドミノ倒しが如く生まれたものであるがために、存在することそのものには意味がなく、従ってあなたが生きている意味も、私が生きている意味も、我々が存在する意味も何もないのである。


 ――だが、だからといって『はい。では意味がないのなら諦めて自殺しましょう』というのは早計である。


 私は、存在することそのものに意味はないとはいったが、それがそのまま生きる価値がないということには結びついてはいないことを理解する必要があるだろう。


 この世界に我々が生きるということは、世界そのものにはどうでもいい事である。

 大樹からしてみれば、どんな経験であろうが栄養になるからである。

 故に大樹は我々の行動に放任的である。


 故に、我々は支配されていながら一方で自由でもあるのだ。


 何をするもよし。

 大樹はそれを是と認めている。


 故に、生きる意味とは我々が自らして見出さなければならないものである。


 アニメを見るのが好き?

 ならアニメを見るために生きなさい。


 本を書くのが好き?

 なら本を書くためにその一生を使いなさい。


 釣りが好きなら釣りをして生きればいいし、人のために行きたいならそういう生き方もいいだろう。


 何が言いたいかといえば、仕事するために生きるのではなく、趣味のために生きろと言う話である。

 そうでなければ生きている意味がない。

 ……仕事をするのが生きがいと言うなら、別にそれでも構わないのだが。

 したくもないものはしなくてもいいのだ。


 大樹は放任的である。

 故に何も望んではい。

 ドングリがどうなろうと知ったことではない。


 だから自由に選択して生きることこそが、我々が大樹から与えられた生きる意味なのでは無いだろうか。


 私はそう考えている。


 さあ、皆の者。

 我々が動物であるということを今一度自覚しようじゃないか。

 そして植物に支配されているということを、今ここで認めようではないか。


 そして手に入れよう、この世の素晴らしき自由というものを!


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