無芸な男
呂礼が斉の宰相の座を去ったため、宰相の座が空いた。
斉の群臣たちは斉の湣王に再び、孟嘗君を宰相に戻すことを請うた。忌々しいことこの上ないと思いながらも湣王は孟嘗君を宰相に戻すことを決定した。
斉の群臣たちの推薦という形であったため、孟嘗君は宰相として復帰することに決めた。
そして、宰相になると一人の男が孟嘗君を訪ねた。馮驩と男は名乗った。
「私は一芸あれば、どのような方であろうとも歓迎してきました。先生にはどのような一芸がありましょうか?」
馮驩は剣を背にしながら鼻で笑うと、
「私は何もできない」
孟嘗君は首を傾げたが、彼はそれ以外に何も言わない。
「では……」
お帰りを、と言いかけた時、
「あなた様は有能な者ばかり持ちすぎですなあ」
馮驩はそのようなことを言い出した。
(お前は持ちすぎたのだ)
荘周の言葉が頭をよぎる。
「では、先生こちらへ」
孟嘗君は食客たちが住んでいる場所に案内した。
彼は馮驩を新人の食客の住む伝舎に住まわせた。
十余日後、孟嘗君が伝舍の長に問うた。
「新しく来た客は何をしているだろうか?」
伝舍の長は、
「あの方はとても貧しいかその身には何もなく、ただ一剣を持っているだけで、食事が終わるといつもその剣を叩いてこう歌っております。『長剣よ、帰ろうか、食事に魚もない』」
孟嘗君が笑って言った。
「私が準備した食事が倹(質素)であることを嫌っているのだ」
馮驩は幸舍に遷され、魚肉を食べるようになった。
孟嘗君は幸舍の長に馮驩の挙動を見守らせて、
「五日後に報告せよ」
と命じた。
五日後、幸舍の長がこう報告した。
「あの方は剣を叩いて以前のように歌っておりますが、前回とは辞(歌詞)が異なっております。『長剣よ、帰ろうか。外出するに車もない』」
孟嘗君が驚いて言った。
「彼は私の上客になりたいというのか。異才があるに違いない」
馮驩は代舍に遷された。
孟嘗君は代舍の長に命じて馮驩が歌を歌うか見守らせた。
馮驩は車に乗って外出し、夜になって帰ると、彼はまた歌い始めた。
「長剣よ、帰ろうか。家を成すことができない」
代舍の長が孟嘗君に会いに行って報告すると、孟嘗君は不快になって言った。
「あの客はあまりにも貪欲すぎる。なぜ満足しようとしないのか」
孟嘗君は代舎の長に改めて観察させました。馮驩は二度と歌を歌わなくなった。
それからしばらくして主家の者(家政を管理する者)がお金が足りないことを伝えた。孟嘗君は三千人も食客を抱えているため、出費が凄いのだがいつもそれを維持できるようにしていた。
「貸券(金銭を貸し出した証文)を調べよ」
孟嘗君が指示すると民間に多額の金銭を貸していることを知った。そして、こう言った。
「客の中で私のために薛に行って債(借金)を徴収できる者はいるだろうか?」
代舍の長が進み出て言った。
「馮驩は長所を聞いたことがありませんが、その為人は忠実そうですので、任せられるでしょう。また、かつて自ら上客になることを請いました。試してみるべきです」
孟嘗君は馮驩を招いて債の徴収について話した。
「わかりました任せて下さい」
馮驩は快諾して車に乗り、薛に入って公府に座った。
薛で多くの者が借金をしていた。孟嘗君が上客を送って利息を徴収に来たと聞くと次々に輸納(納付)に来た。集まった利息を数えると十万銭もあった。
馮驩はこれらの金銭を使って大量な牛肉や酒を買い、こう宣言した。
「孟嘗君に息銭を負った者は(借金をしている者は)、返せる者も返せない者も、明日、府中に来て券(証文)を照合するように」
百姓は牛酒の犒があると聞き、皆期限通りに集まった。馮驩は一人一人に酒食を与えて労い、集まった者を腹いっぱいにさせ、その様子を傍で眺めながら人々の貧富の状態を観察した。
人々が食べ終わってから券を出して照合し始めた。返済の能力があって、今は一時的に返せなくても後日返せると判断した者は、期日を約束して券の上に記載した。
貧困のため返済できない者達は、皆並んで拝礼して、期日を延ばすように願った。すると馮驩は左右の者に火を焚かせ、笥(竹の箱)に入った貧券(貧困者の証文)を全て火の中に投じてしまった。
馮驩は人々に向かって言った。
「孟嘗君が民に銭を貸したのは、汝ら民に生計を立てる金銭がないことを恐れたためである。決して、利が目的ではないのだ。しかし孟嘗君の食客は数千人もおり、俸食が不足していたため、やむなく息銭を徴収して賓客を奉じることにした。今、返済の能力がある者は期約を更新し、能力がない者は券を焼いて免除した。孟嘗君の汝らに対する施徳はとても厚いものである」
人々は叩頭して歓声を上げて言った。
「孟嘗君は真に我が父母の如き方です」
と言った。
馮驩が券を焼き捨てた事は早くも孟嘗君に知られ、孟嘗君は激怒した。そして、彼は人を送って馮驩に帰還を催促した。
馮驩は何も持たずに戻って来た。
孟嘗君が知らないふりをして問うた。
「先生には労苦をかけた。債の徴収は終わっただろうか?」
馮驩はこう答えた。
「あなたのために債を徴収しただけではありません。徳も徴収して参りました」
孟嘗君が顔色を変えて譴責した。
「私には食客が三千人もおり、俸食が不足しているために薛に金銭を貸して余息を徴収し、公費の助けにしようと思ったのだぞ。しかしながら先生は息銭を得たにも関わらず、多数の牛酒を準備し、衆人と楽飲して券の半数を焼き捨てたと聞いた。それでも『徳を徴収した』というが、先生が集めた徳とは何であろうか」
馮驩はこう答えた。
「まずは怒りを収め、詳しく説明することをお許し下さいませ。負債の者は大勢おりました。牛酒を準備して交歓しなければ、人々は疑って集まらず、力(返済能力)の饒乏(足りているか不足しているか)を見極めることもできなかったのです。今回、力が足りている者とは期限を約束しました。力がない者に対しては、たとえ厳しく責めて取り立てたとしてもやはり徴収できません。時が久しく経てば利息がますます多くなり、最後は逃亡してしまうことでしょう。小さな薛はあなたの世封(代々の封地)であり、その民はあなたと安危を共にしている者達なのです。今回、無用の券を焼いたのは、あなたが財を軽んじて民を愛す姿を明らかにするためであり、この後、仁義の名が無窮に流れることでしょう。これが私のいうあなたのために徳(恩恵)を徴収したということです」
孟嘗君は食客の費用に窮していたため、心中では納得できず、眉を上げていたが、しかしながら券は既に焼かれているため。無理に和やかな顔を作り、揖礼して謝した。
その後、孟嘗君はほとんど彼へ信頼を向けることはなかった。
そんな中でも馮驩は一人、剣を叩くだけであった。




