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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第五章 名将協奏曲

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道家

幼少の頃、最初に見たロボットアニメが初代トランスフォーマーだった。


その後、他のロボットアニメを見て、最初に抱いた感想が、変形シーンが長い!でしたね。トランスフォーマーの皆さん、ヌルヌルと変形するもんだからそんな感想抱いた思い出があります(笑)

 白起はくきによる伊闕の戦いの結果は天下を震撼させた。あまりにも大きな犠牲者の数であったためとあまりにも無名の将軍であったためである。


 これに気をよくした秦の昭襄王しょうじょうおうが楚の頃襄王けいじょうおうに書を送りつけた。

 

「楚が秦に背いたため、秦は諸侯を率いて楚を討伐し、一旦の命(一日の生命)を争うつもりである(決戦して勝敗を明らかにするつもりである)。王が士卒を整え、一戦によって満足することを私は願う」

 

 頃襄王はこれを恐れて秦と和親することにした。


 年が明けて紀元前292年

 

 楚は秦から婦人を迎え入れて講和した。

 

『資治通鑑』の編者・司馬光しばこうは、父・懐王かいおうを殺して子・頃襄王を脅迫した秦の無道さを批難しつつ、父が殺されたことを我慢して仇讎の国と婚姻を結んだ子の無能さを嘆いた上でこう言った。


「もしも楚の国君が道を修めて人材を得ていれば、秦がいくら強大であってもここまでの屈辱を得ることはなかったことだろう」


 後世の人間であっても秦の無道さに怒り、楚の無様さを嘆いたのである。


 当時の人々ならば、それよりも少し後の人々があれほど秦を憎み、一人の英傑にして武神の権化を生み出すことになったのはこのことがあったのだろう。


 一方、秦は大良造に出世させた白起に魏を攻めさせて垣を取った。


 白起は相変わらず、多くの者たちを殺していた。




 秦の勢いは止まるところを知らなかった。


 紀元前291年

 

 秦が韓を攻めて宛を攻略した。

 

 この結果によって魏冄は穰と陶に封じられ、穰侯とよばれるようになった。

 

 更に秦は公子・市を宛に、公子・悝を鄧に封じた。それぞれ高陵君、涇陽君と号した。

 

 紀元前290年

 

 秦の勢いに対して、恐怖した魏が河東の地(安邑、大陽、蒲阪、解等)四百里を、韓は武遂の地二百里を秦に譲った。


 孟嘗君もうしょうくんが隠居したことも二カ国がこのようにした理由の一つであろうと思われるが、どうにも魏にはある者の進言によるもののようである。


 この頃、魏では芒卯が詐(智詐)によって重用されるようになっていたのである。この男が勧めたのである。


 彼はこれらを渡すことで前年に取られた垣の地を取り返そうとしたのである。結果は秦はあっさりとこれを認めて渡してきた。


 韓が秦に靡いたことに対して、趙の将軍・趙梁が斉と共に韓を攻め、魯関(魯陽関)の下に至った。

 

 紀元前289年


 韓が攻められたことで次は魏だと思い、再び魏は秦から離れようとすると秦は大良造・白起、客卿・司馬錯を投入し、魏を攻めて軹に至り、大小六十一城を取らせた。

 

 この時の戦で垣は再び、秦のものになった。

 

 秦の勢いの前に天下が押される中、この年に儒学の大家・孟軻もうかが世を去ったと最近の研究によると言われている。


 今まではこれよりも前か後だと言われていた。


「孟軻が死んだか」


 荘周そうしゅうはその知らせを聞き呟いた。


「頑固なやつだったものだ」


 彼は孟軻の死を悲しんだ。


「何故、悲しむのですか。あの人は思想的に対立していた方でしょう?」


 黄石こうせきはそう言った。


「そうだな。あいつとは完全に考え方が違った。そのことは事実だ」


 だがなと荘周は続ける。


「違いがあるからこそ、良いのだ。何でもかんでも思想が同じなどそのようなことがあるのであるのなら、それはとても悲しいことだ」


 思想的対立はあっても互いを尊重すべきだと荘周はそう思っている。


「自分の考えが絶対的に正しいと思っていると必ず、間違えを犯すぞ」


「例えば、白起のようにですか?」


 黄石はそう言った。自分の考えの一切を妥協しない。変えようとしない。その代表的な存在が彼にとっては白起であった。


 その言葉に荘周は目を細めた。


「あれは、天災のようなものだ。そのように考えているとお前も間違うぞ」


「えっ?」


 それから荘周は何も言わなかった。











 ここまで荘周という人物のことを述べてこなかった。


 そもそも彼は老子の考え方と一緒くたにされて、老荘思想と言われる道家思想の大家の一人である。これは恐らく儒教の孔孟思想と言われることを真似た表現ではないだろうか。


 だが、孔子の考え方を孟子は発展、工夫を凝らしたことに対し、老子の考え方と荘周の考え方は異なっている。


 先ず、第一に道家思想が掲げるものに「道」というものがある。


「道」とは何か。そのことを説明するのは難しいが、簡単に言ってしまえば、世界の根底にある不思議な力(エネルギーという表現の方がイメージしやすいかもしれない)のことである。


 その「道」を意識し、俗世世界から自然世界への回帰。それが道家思想の考え方である。


 老子と荘周でこの「道」を掲げていることは同じであるが、その「道」に関しての考え方と世俗世界への距離感などが違う。


「道」に関して、老子は「静」であるとし、ゆったりと世界の中にあるとしており、その「道」を意識しながら世俗世界の中を生きるという風に世俗世界への距離が近い。


 一方、荘周の「道」は「動」であり、常に変化しているものとしており、それにどう付き合い楽しむのかというものがある。その代わり、世俗世界とは距離がある。


 孔子、孟子という儒教の流れは所謂、発展系であると言えなくはない。一方の老子、荘周はある一つの考えが突然、二つに別れたかのように思える。


 荘周の登場は道家思想内における思想的分裂であったのではないか。つまり彼は道家思想の改革を行おうとしていた人物であったのではないだろうか。


 彼からすると今の道家思想には問題があった。


 かつては孔子とその弟子たちが世を去ったために儒教の力は弱まり、様々な思想が力を持って圧倒した。そんな中、孟子が登場し、再び儒教は盛り返すことになった。


 さて、儒教の盛り返しにより、他の思想家は弱体化し始めた。例えば、墨家などは内部分裂の果てにもはや立て直しができない状況にまでいってしまった。


 では、道家である。彼等の考え方は古代であることを踏まえてもあまりにも抽象的なものである。そのため一種の体系化が作られつつある儒教に比べるとそれを政治などに組み込むことは難しいものであった。


 対立軸を作る上で一方が抽象的なことしか言わなければ、そっちの方が負けるのは必然と言えば、必然であった。


 儒教は政治的な思想を出しているのに対して、道家思想がどのような政治思想を見せたのかを考えてみる。


 老子の言葉に小国寡民という言葉がある。小さな国、少ない国民というもので、老子はこれを理想の国家として挙げている。


 さて、この理想郷の詳しいところを見てみると小国寡民の説明において旅に出ないという一節が出てくる。これは自分の国に満足するために旅に出ないと言っているがこれは遠回しに言えば、交通手段を捨ててしまえということである。


 そして、老子の言葉の中には勉学に励むなと言った言葉もあり、更には文字すらも捨ててしまえというものもある。その代わりに用いるのが縄の結び方などによる会話手段を提示している。


 そんな国としての形を持って、どうやって運営していくのか。そういった細かいことは書かれず、老子の文中では終始、抽象的な言葉でしか語れていない。


 では、敢えてそれを具体的に、老子の言葉を元に道家思想の掲げた理想の政治像を一言で言ってしまうとそれは愚民政治である。


 人々の交通手段を捨てさせ、勉学による知識の収集をやめさせ、文字によるコミュニケーション手段を捨てさせ、単調なコミュニケーションしか用いれないであろう縄の結び目による会話手段の提示、これらは全て国民を愚民に変えるということである。


 これを道家思想は儒教への一種のアンチテーゼとして提示した。


 しかし、先ほどまで述べているが道家思想はこれらに関してあまりにも抽象的で述べられているに留められている。


 そのため荘周の時代にこの政治思想はまだ、表に出てはいなかった。


 そう彼の登場までは……道家思想のこの政治思想の提示は他のある思想に共感を覚えさせたのである。法家思想である。法家思想は儒教への最大のアンテテーゼを提示した思想だが、この段階においてまだ、完成形までには至っていない。それを完成させたのが韓非子かんぴしである。


 そして、彼の作り上げたものを政治運営に利用することになるのが、秦であり、始皇帝しこうていである。


 この危険性に最も早く気づき、新たな道家思想の形を示そうとしたのが、荘周だったのではないか。下手に儒教のアンチテーゼになるのではなく、自然への回帰の部分を強化、「道」が最も変化に富んでいることの提示、それと付き合うことによる楽しさを彼は提示したのである。


 荘周は人というものが決して綺麗な存在でないことを知っている。しかし、それは人への諦めではない。それで良い。それでこそ人である。下手な飾り付けなど彼にとっては価値はないのである。


 道家思想は儒教と張り合おうと下手な飾り付けをしつつある。


「私は家族のために己の欲を抑えようとする人間が好きだ。本当は怠惰であるのに、それでも必死に働く人間が好きだ。柵を嫌いながらも社会の中で生きようとする人間が好きだ。己の手を汚しながらも子の前では立派であろうとする人間が好きだ」


 それを滑稽な姿であるとしつつも荘周は人間を愛した。そして、そんな人間に彼は囁く。自然への回帰を、社会への諦めを、人としての諦めを。それでもそれを振り払う人間というものを彼は愛した。


 そんな人間が作り上げていく社会こそに意味がある。それにも関わらず、それを全否定しかねない考え方を道家思想は持ち始めている。


 それが荘周が歴史の表舞台で名を残すことになった理由ではないだろうか。


 彼ほど人間の内面の弱さを笑い、社会の暗さ、歪みを笑い、そして誰よりもそのことを愛した。


 荘周とはそういう人である。




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