祖国よ
蛇足伝も更新しました。
紀元前295年
趙による中山侵攻が始まった。斉の中山侵攻に介入しないという密約を元に趙の武霊王は大軍勢を持って、侵攻を仕掛けたのである。
中山はもはや国際的には孤立し、どこも助けの手を伸ばすものはいない。そんな中でもなんとか外交的打開を目指した楽毅とてどうしようもなかった。
そんな危機において中山は楽毅を武官に戻した。今更という気持ちがないわけではなかったが、楽毅はこれを受け入れた。
「自殺行為ですな」
紀昌はそう言った。
「ええ、それでも任命された以上は使命を果たさなければ」
「死ねという使命であっても?」
「ええ、それが軍人というものです」
楽毅は兵を率いて出陣した。少数の兵であり、かつて鍛え上げた兵でもない。
それでも楽毅は工夫を凝らしながら趙軍と戦う。
「蟻がどれほど努力しようとも象の前には無力だ」
だが、楽毅の軍は趙軍にほとんど被害を与えることはできず、その足を止めることもできない。
「都で篭城戦をしよう」
楽毅は力無く呟く。
楽毅は首都に戻って、篭城戦を行うことにした。しかし、趙軍の圧倒的兵力、兵器を前に楽毅の力と言えどもどうしようもなかった。
彼は城壁の上を一人歩いている。今日は珍しく趙軍の攻撃が無い。
(もう滅ぶのだな……この国は……)
父の愛したこの国が……父が愛してくれた才を持っているはずの自分はそれに対して止めることはできないでいる。
(仕方ないことだ)
中山はそれだけ国を保つための努力を怠ってきた。それに対して、趙は強力な兵を用意するなどこの国を滅ぼすために努力を怠らなかった。
「ああ寒いなあ。寒いなあ」
なんでこれほどに寒いのだろう。体も心もどうして寒いのだろう。この国が今、正に滅ぼうとしているというのに自分はこれほどに冷めている。
楽毅はそんな自分が嫌いであった。深い自己嫌悪に陥るのである。
「父の愛した国を守らなければ……」
「そう言わなければ、この国を見捨ててしまうそんな自分が嫌いか?」
そんな言葉を後ろからかけられたため、楽毅は後ろを振り向いた。そこには髪の長い男と黄色い服の子供がいた。
「こんな国、滅んでしまっても良いのではないか?」
「貴様、何者だ」
「どうでも良いではないか。お前を裏切り続けた国だぞ」
楽毅は相手の言葉を受けて、そのとおりだと思う心とそれに反発する思いがせめぎ合っていた。
「私は軍人ですので」
彼がそう言うと荘周は笑う。
「滅びる国に殉ずる。それが国への敬愛というのか。実に滑稽なことだ」
荘周はそう笑いながら、目を細める。
「人とはどいつもこいつも馬鹿ばかりだ。そんなつまらないことで命を賭ける」
「それでもやらなければならない」
「ならばこの国は死ぬな」
楽毅は首を傾げた。国が滅ぶと死ぬとは意味が違うのだろうか。
「お前がこの国に殉じて、死ねばこの国は完全に死ぬだろう。誰もこの国を思い出すこともない。中山などと言った国があったという事実を誰も知らなくなるだろう」
「そんなことは……」
「ならば、お前はかつての聖天子が滅ぼした国々の名を言えるか?」
彼の言葉に楽毅は無言になった。
「国の名は大いなる輝きを前にして容易に失われるのだ」
荘周は笑う。
「一切の輝きを失えばの話だがな。例えば、お前という輝きが」
「今更、私に何ができましょうか?」
楽毅は鼻で笑った。
「さあな。それはお前自身が考えなければならない」
「無責任なことだ」
「よく言われるよ」
すると荘周と黄色い子供はすうと消えた。
「中山という国の名が失われるか……」
楽毅は宮中に向かい、中山王に謁見した。
「もはやここまでです。降伏しましょう」
「何を言っているか」
中山王の周りの大臣たちが口々に反対意見を述べる。
「逆転の手はもうありません。また、これ以上の国民を死なすわけにはいかないでしょう」
楽毅はその後、反対する大臣たちを説得し、降伏の意思をまとめさせた。
次に国民の前に現れ、言った。
「広大なる山々に囲まれ、騎馬に優れ、兵は鍛えられた我が国はついに滅びの時が来た。ただただ天の時を得なかったためである。しかし、国に殉じてはならない。中山の民であったことを誇りに思いながら降伏しよう」
彼は首都の道々の隅々まで掃除させ、宮中を清めた。そして、武霊王の元に使者をやって降伏の意思を伝えた。
翌日、武霊王は軍を率いて中山の首都に入城した。そのまま宮中に向かうと中山王からの降伏の意思を聞いて、中山の宝物を納めた。
(ああ、国が滅んだ)
楽毅はそう内心、呟いた。
中山の民たちの中には泣くものもいる。
ふと、頬に何かが流れた。指で掬うと楽毅は不思議と安堵した。
(私は……祖国が滅ぶことを悲しむことができたのか)
その後、楽毅は武霊王の元に出頭を命じられ、趙の都に連れて行かれると幽閉された。
「戸を二度叩かれると思っていたのか?」
武霊王は幽閉先を訪れ、そう彼に言った。
「いいえ」
「お前があの時、私の臣下になっておればこのような目に合わなかっただろうにな」
「そうかもしれませんが、後悔はありません」
彼の言葉に武霊王は鼻で笑って立ち去った。
「あの人、囚われてしまいましたよ」
黄石はそう言った。
「そうだな」
「そうだなって……やれやれ」
荘周に呆れる黄石を尻目に荘周は呟く。
「人の運命は表裏一体」
人の明暗もまた、くるりとひっくり返る。
いつの時にも運命は喜劇と悲劇を望むのだ。




