人材
大変、遅れました。
紀元前407年
魏は南は楚を破り、西の秦、東の斉をも破るなど一気に強国へとのし上がった。これは魏の文公が多くの人材を集め、活用したのが大きい。
彼は常に賢者の教えを請うており、子夏(卜商。孔子の弟子)が生きている頃は彼から経芸(経書の教え)を学ぶなど、常に努力を欠かせなかった。
子夏の弟子たちも多く彼に仕えており、その一人である段干木の閭(小巷)の前を通った時には、軾礼(車上の礼)を行ったという。
御者が、
「主公はなぜ軾を行うのですか?」
と聞くと文公はこう答えた。
「ここは段干木の閭だ。段干木は賢者である。軾を行うのは当然ではないか。それに、段干木は徳を重視しており、たとえ国君になれたとしても、徳を棄てることはないと聞いた。そのような人物に対して驕慢であってはならない。段干木の光(栄光)は徳にあるが、私の光は地(領地。国君の地位)にあるに過ぎない。段干木の富は義にあるが、私の富は財にあるだけである」
御者が言った。
「それならば、国相として招くべきではありませんか」
そのとおりだと思った文公は段干木を国相として招こうとした。しかし段干木は辞退した。文公は百万銭の禄を準備して頻繁に段干木の家を尋ねるようになった。
これを聞いた国人が喜んでこう歌った。
「我が君は正を愛され、段干木が敬われた。我が君は忠を愛され、段干木が栄誉をうけた」
暫くして秦が魏を攻撃しようとしたが、司馬唐(司馬は官名だとは思われる)が秦君を諫めて言った。
「段干木は賢者です。魏はそれを礼遇しており、天下で知らない者はいません。兵を加えるべきではありません」
秦君は納得して出兵を中止した。
文公が群臣を集めて酒を飲んだ時のこと、音楽を奏で始めると、雨が降り始めた。すると文公は車の準備をするように命じた。野(郊外)に行くためである。
左右の近臣が問うた。
「今日は酒を飲んで楽しんでおり、しかも天が雨を降らせたというのに、主公はどこに行くつもりでしょうか?」
文公は言った。
「私は虞人(山沢を管理する官)と狩猟の約束をしていた。酒宴は楽しいが、約束を無視するわけにはいかないではないか」
彼は自ら狩猟の中止を伝えるために退出した。
文公は賢者とその他の者では態度を変えることがある。
彼は段干木に会った時は、立ち続けて疲れても休むことがなく、姿勢も崩すことはなかった。しかし朝廷に帰って翟璜に会うと、あぐらをかいて話をした。翟璜は不快になった。
すると文公はこう言った。
「段干木は官を与えても辞退し、禄を与えても受け取ろうとはしなかった。しかし汝は官を欲して相の位に就き、禄を欲して上卿となった。私から実(官爵・俸禄)を得ていながら、私に礼を求めるのは、無理なことだとは思わないか?」
また、文公は音楽を好んだ。
彼が田子方が酒を飲んだ時、音楽を聞いて言った。
「鍾声が調和していないのではないか。左の鐘が高いぞ」
すると田子方は笑い出した。文公がその理由を問うと、田子方は答えた。
「国君とは楽官に明るく、楽音には明るくないものだ(楽官を用いることはできるが、音楽そのものには精通していない)と申します。しかし今、主公は音に精通しているようでしたので、官に対して聾であること(うまく官を用いることができないこと)を心配したのです」
文公は、
「そのとおりだ」
と答えた。
ある時、師経(楽師。経は名)が琴を弾くと、文公が立ち上がって舞いを始め、曲に合わせてこう言った。
「私の言に逆らう者がいてはならない」
すると師経は琴を抱えて立ち上がり、文公に体当たりしようとしました。しかし楽師は盲目なため、文公にぶつかることはなく、文公の旒(冠の装飾)に掠り、これを壊しただけだった。
文公が激怒して左右の近臣に問うた。
「人臣でありながら敢えてその君にぶつかろうとするのは、どのような罪に値するのか」
左右の者は、
「その罪は烹(煮殺す刑)に値します」
と答えた。
近臣が師経を連れて堂を降りようとすると、師経が言った。
「一言残してから死ぬことをお許しください」
文公が許可すると師経は言った。
「昔、堯、舜が人の君となった時は、自分の言葉に反対する意見が出ないことを恐れました。逆に桀、紂が人の君となった時は、自分の言葉に反対する意見が出ることを恐れました。私は桀、紂にぶつかろうとしたのです。我が君にぶつかろうとしたのではございません」
彼が自分にぶつかろうとしたとして、彼を処罰すれば、自分が桀、紂の類であることを認めることになる。
文公はそれがわからないような男ではなく、
「彼を放せ。私の過ちである。その琴を城門に掲げて私の過ちの符(証拠)とせよ。旒は直さず私の戒めとしよう」
文公を強国の主にお仕上げたのは誰だと言われれば、この人しかいない。李悝である。文公は彼に対しては特に敬意を示し、教えを請うた。
ある日、彼が李悝に問うた。
「呉が亡んだのは何故であろうか?」
「何回も戦って全てに勝ったからです」
「何回戦っても全て勝つのは国の福ではないか。それにも関わらず、亡んだのは何故だろうか?」
「何回も戦えば、民が疲弊し、全勝すれば国君は驕るものです。驕った国君が疲弊した民を治めるのですから、亡びないはずがないでしょう」
「そのとおりだ」
またある時、文公は李悝に問うた。
「人から憎まれるものはあるだろうか?」
「あります。貴者は賎者に嫌われ、富者は貧者に嫌われ、智者は愚者に嫌われるものです」
「その三者(貴・富・智)をもっていて、しかも人から憎まれないということができるだろうか?」
李悝は頷いた。
「できます。貴者でありながらも賎者にへりくだれば、衆人から憎まれることはございません。富を得ても貧者に分け与えれば、窮士に憎まれることはございません。智慧があって愚者に教えれば、童蒙(愚昧)の者に憎まれることはございません」
文公は彼の言葉を大いに讃えた。
「素晴らしい言葉である。堯、舜のような聖人でも欠点はあったものだ。私は彼等よりも聡明ではないから、なおさらこの言葉を守ることにしよう」
李悝に継ぐほどに文公が敬愛したのは、田子方である。彼にはこんな逸話がある。
彼が道を歩いていると、老馬を見つけた。田子方が嘆息して馬の御者に問うた。
「これは何の馬だ?」
「これは以前、公家で飼われていた馬です。既に年をとり、疲弊したため役に立たないため、売りに出すのです」
田子方は再びため息すると、
「若い時はその力を貪り取り、年老いれば、その身を棄てるとは、仁者がすることではない」
と言い、束帛を御者に渡して馬を買い取った。
これを聞いた疲武(罷武。老齢の士)が田子方に帰心するようになったという。
李悝が国を治める方法について文公に教えるならば、田子方は仁とは何かということを教えている。
文公と田子方が話をしている時、二人の僮子(童子)が文公に従っていた。一人は青い服、一人は白い服を着ていた。
田子方が、
「この二人は主公の寵子(息子)でしょうか」
と問うと、文公は首を振り言った。
「違う。彼等の父は戦で死んだため、幼孤(孤児)になったから私が養っているのだ」
田子方は言った。
「私は主公の賊心(人を害する心)が既に充分満足できたと思っておりましたが、更に酷くなっていると知りました。主公はこの二人の子を寵愛していますが、二人が成長してから誰の父を殺させるつもりでしょうか」
文公は二人の孤児を憐れみ、
「私は教えを受け取った」
と言って反省した。この後、できる限り兵を用いないようになった。
文公は政治を行う上で、民の暮らしを第一にした。
ある時、文公が外遊した時、道で会った男が裘(毛皮)を裏に着て芻(芝草。動物の餌にする草)を背負っていた。
「なぜ裘を裏に着て芻を背負っているのだ」
と、文公が聞くと、男は、
「私はこの毛が好きなのです」
と答えた。毛を失わないために裏表を逆に着ているため、本来内側になる皮の部分が芻にあたって擦れているのは、そういうことである。
文公は言った。
「皮も摩耗したらなくなるということを知らなければ、毛があるべき場所はなくなってしまうではないか」
翌年、東陽という邑が例年の十倍に値する銭布を納めた。大夫が祝賀すると、文公は不機嫌になり、言った。
「これは祝賀することではない。以前、路で会った者が裘を裏に着て芻を背負っていたのと同じである。その毛を愛していても、皮がなくなることを理解していなければ、結局、毛を残すこともできなくなるのだ。私の田(土地)が広くなったわけではない。士民が増えたわけでもない。それにも関わらず、銭が十倍になったのは、士民から徴収したからだ。下が安定しなければ上が居続けることはできないもの。だから祝賀するべきではないのだ」
また、解扁という者が東封(東部)の統治を任されており、その年の収入が三倍になった。
有司(官員)が解扁を褒賞するように進言すると、文公が問うた。
「我が領土が広くなったわけでもなく、民が増えたわけでもないにも関わらず、なぜ収入が三倍になったのか?」
官員が言った。
「民に命じて冬の間に樹木を伐って蓄えさせ、春になれば、黄河に浮かべて売り出しているのでしょう」
文公は激怒した。
「民の行事というのは、春は耕、夏は耘(草を除いて農地を整えること)、秋は収斂(収穫)と決まっており、冬だけは何もしない。それにも関わらず、林を伐採して樹木を蓄えさせ、それを運んで黄河に浮かべるようにすれば、民に休む時がないではないか。民を疲労させるようならば、三倍の収入があったとしても役に立たない」
このように文公は多くの名臣の言葉を聞きながら政治を行っていたのである。彼の臣下の多くは子夏の弟子が多い。
文公は子夏のことを尊敬していたようである。若い頃、子夏を招いたことがあった。
「先生は、実に多くの方を一人前にされています。尊敬に値する方でございます」
子夏は首を振り言った。
「いえ、我が師である孔子に比べれば、私などは大したものではございません」
「孔子という方はどういう方でしたか?」
文公は問いかけると子夏は困ったような表情を浮かべた。
「天であると申すこともでき、大地であると申すこともできます。とてもではございませんが、私如きのものに師のことを話す言葉を持ちません」
次に文公は言った。
「先生の弟子と孔子の弟子では、どのくらいの差がございましょうか?」
その言葉に子夏は思わず、鼻で笑った。
「失礼……ですが、あなた様は玉と石をわざわざ比べるのですか?」
子夏という人物は孔門十哲の一人であり、中でも魏に仕えた者たちのように彼の弟子は歴史の表舞台で活躍した者ばかりである。
その割には、子夏という人物の歴史的、もっと具体的に言えば、儒教の中ではあまり重きを持たれる存在ではない。
儒教において孔子の次に重きを持つ者は孟子である。しかし、彼は儒教という宗教の再興者であることは事実であっても教育者として見ると孔子が鍛え上げたような弟子たちのような者は鍛えることができなかった。
それならば、歴史の表舞台で活躍した者が多い、子夏の名はもっと重くても良いように思える。
彼の名の軽さは李悝のような法家の思想に近い持ち主が弟子にいるからであろう。儒教のものとして育てられなかったのである。
しかし、彼は敢えて育てなかったというべきなのかもしれない。
子夏は師である孔子に自分が及ばないことを痛感する日々を送っていた。
(人を教えるということは難しい)
孔子は顔回、子貢という元々優等生だった彼等だけでなく、問題児であった子路、宰我を一人前の育て上げた。それどころか子路に至っては、君子の生き様を体現見せている。
(私にはできない)
彼は孔子の行った教育に比べると数段劣る教育しかできなかった。いや、そうするしかなかったと思いながら、弟子たちを育て上げたのである。
「あなた様は私の弟子たちを賢者と讃えて下さる方だ。しかし忘れてはいけません。彼等よりも遥かに上の賢者などは天下に多くおります。あなた様が、この国が彼等を求め続ければ、もっと国は豊かになっていくことでしょう」
「はい、教え感謝致します」
それが文公が子夏に受けた最後の教えであった。