危機の中の希望
紀元前298年
孟嘗君・田文が秦に入ると凄まじいほどの歓迎を受けた。
「良くぞ参られました」
彼を出迎えたのは魏冄である。
「彼のご高名の孟嘗君にいらっしゃってくださるとは、なんと幸運なことでしょうか。色々と教えを頂きたい」
「いえいえ、私は秦、斉両国のこれからの未来の礎のために参ったのです。それに尽力できればそれで良いのです。何も教えることはありません」
大層なもてなしを受けながらも孟嘗君は魏冄の配慮の数々に良い印象を抱いた。
(秦にもこういう方がいるのか)
虎狼の国と悪名高い秦だが、自分に対して行われるもてなしの数々はそれとは無縁のものである。
(これならば、秦、斉両国の関係は良くなるだろう)
「では、王の元へ参りましょう」
孟嘗君は魏冄の案内の元、秦の昭襄王に謁見した。そこで彼は驚愕する。
「孟嘗君、あなたに秦の宰相になっていただきたい」
(私が……秦の宰相……)
まさかと思いながらも目の前でそう言った昭襄王の態度は見せかけのものではなく、近くの魏冄も同じようであった。
「我が国は長らく諸国と戦い、先代の頃には身内同士の戦いがあった。我が国は大変、疲弊している。この国を疲弊から救い、諸国との関係をより良くするうえで、孟嘗君。あなたの力がいるのだ」
(つまり秦はかつての虎狼の国という評判を変えたいのか……)
孟嘗君の政治において大切にしているのは多くの者にとってより良い世界を作ることである。そして、そのために手を伸ばそうとしている者が、国がある。
(どんな者の助けを求める手を受け取るのが私の信念だ)
それが世界をより良くする上で最も大切なことだと彼は信じた。
「不才なるもお引き受け致します」
「おお、感謝しますぞ」
魏冄は彼の言葉に喜び、翌日正式に宰相の任命を行うと説明を行い、孟嘗君を屋敷に案内した。
夜の帳が降りた頃、魏冄はほくそ笑みながら酒を飲んでいた。
「宰相になった孟嘗君の元、秦の国はもっと良くなるはずだ」
彼の構想は先ず、孟嘗君の主導の元、秦の国内を休め政治運営を行う。その後、ある程度、国を休めた後に先代の武王のように宰相を右丞相、左丞相に分けて、孟嘗君と自分がその任につく。
国内の内政を行うのを孟嘗君に任せ、自分は軍事を元に動く。
こうすれば、徳と武を用いながら秦は天下を得ることができるだろう。
「よりよき国となる秦に乾杯しなければな」
その時、ふと違和感を感じた。
「そう言えば、今日は白起の顔を見ていないな」
いつもならば戦場に出ていない意外は顔を見せていたのだが……
「こういう日もあるか」
彼は特に気にしなかった。
同じ頃、現在の秦の宰相・楼緩の元に趙の武霊王の使者が来ていた。
「なんと、それは誠か」
斉の宰相であった孟嘗君が秦に来るという話は聞いていた。だが、その彼がこの秦の宰相になるというのである。
「確実な情報です」
「まさか、まさか秦は私を宰相の座から引きずり下ろし、それどころか趙のことを蔑ろにするというのか」
斉は中山への侵攻を邪魔した国である。また、もし秦の宰相に孟嘗君がなれば斉と秦によって趙は滅ぼされるのではないか。
「主父もそれを憂いておられます。そこであなたには孟嘗君の始末を命じるとのことです」
「承知した」
彼は武霊王の命令を受けると昭襄王の元に急いで駆け込んだ。
「王様、王様は私を、我が国を蔑ろにされるのですか」
楼緩は泣きながら昭襄王に訴えた。
「そのようなつもりは私にはない」
昭襄王はそう言うが楼緩は首を振りながら言った。
「それならば私を宰相の座から下ろし、孟嘗君を宰相に据えるのですかあ」
およよよと彼は泣く。その姿に昭襄王は同情した。
「孟嘗君を秦の宰相となされば、彼は必ずや斉を優先し、秦を後に置くことでしょう。これは秦にとって危険なことだと王様はお考えにならないのですか?」
同情した様子の昭襄王を見て、楼緩はそう話し始めた。
「孟嘗君は斉の人です。斉のために彼は動くでしょう」
自分とて趙の人であることを棚に上げながらそう言った。そのことに彼に同情している昭襄王はそのことに気づかない。
「そうだ。その通りだ。私は孟嘗君を宰相にしない」
そもそも本来であれば、このような人事は彼にも話しておくべきであり、それを魏冄が行うはずにも関わらず、行っていない。
ある意味、これは叔父への意趣返しでもあった。
「ああ、王様のお寛大なお気持ちに感謝します」
楼緩は大いに喜びながらもこう言った。
「しかし、既に王は孟嘗君に宰相に据えることをおっしゃられております」
「その通りだ」
「これを孟嘗君は大いに批難することでしょう。彼の批難は天下を動かすほどに彼は名声を得ております」
「うむ、ではどうすれば良い?」
昭襄王がそう聞くと彼はにやりと笑って言った。
「孟嘗君を捕らえて、始末してしまえば良いのです」
「大変です」
寝ていた孟嘗君の元に鶏鳴が慌てて、駆け込んできた。
「どうした?」
「今、屋敷を秦兵が囲んでおります」
「何?」
孟嘗君は驚いて起きると屋敷をぐるりと囲む秦兵を見た。
「秦の罠だったのです」
狗盗がそう言った。
「まさか……」
秦側の最初の対応にそのような様子はなかった。
「流石は虎狼の国というべきか……何故、私を捕らえようとするのか」
そもそももっと簡単に捕らえる機会はあったはずである。
「そこに虚があると思うべきだ」
後ろからそんな声が聞こえてきた。孟嘗君が振り向くとそこには髪の長い男がおり、その横には黄色い服を来た子供がいる。
「あなたは……」
「さあ、お前はこの危機をどう乗り越える?」
髪の長い男、荘周はそう言った。




