韓の後継者争い
秦は楚を攻めて、大きな戦果を挙げた。
しかしながら魏冄は頭を抱えていた。
(白起の手綱をしっかりせよと申していたであろうに……)
大戦果を挙げたがあまりにも圧倒的な戦を行ったために、恐れた楚の懐王が太子・横を質(人質)として斉に送り、和を請うてしまったのである。
(楚と斉が手を結ぶと難しくなる)
今、秦は斉と手を結んでおり、斉の加護下にいる韓、魏とも手を結ぶ状況で楚を攻めるというのが方針だった。しかし、楚が斉と手を結べば、秦は楚を攻めることができなくなる。では、趙を攻めればと言えばそうはいかない。
それが彼が頭を悩ます問題の一つである。
今、秦では宰相の樗里疾が死んだ。
そのため彼の後任を決めなけれなければならないのだが、秦の昭襄王を燕から招く際に趙にその通行を認めてもらうため魏冄は趙と密約を結んでいた。
趙人を宰相にするというものである。しかしながら趙人を宰相にすれば、趙との関係を重視する政治を宰相は行うことだろう。
つまり秦は勢力拡大を行うために攻める国を失ってしまうのである。
(困ったものだ)
だが、これを受け入れなければ、自分は信義が無いとされてしまう。裏を返せば、ずっと戦続きだった国を休ませることもできるではないかという見方もできる。
しかし、彼はそうは考えなかった。
(今の秦は人材がいなすぎる)
はっきり言えば、魏冄は昭襄王の王位を確立させるために敵対する勢力を尽く粛清した。それに巻き込まれて、内政を担った者たちも粛清してしまった。
そのことがこの時までに表面化しなかったのは、宰相であった樗里疾のそつのない政治手腕によるものである。しかし、その彼はもういない。
「仕方ないか」
秦は趙人・楼緩を丞相に任命した。それから数日して、魏冄は舌打ちした。
(口が上手いが、政治的手腕は三流か)
「内政手腕に長けた者が欲しい」
魏冄はそう呟いた。
この年、韓の太子・嬰が死んだ。その結果、公子・咎と公子・幾瑟(蟣蝨)が太子の位を争った。
この時、幾瑟は人質として楚にいた。
そのため冷向が公子・咎に言った。
「幾瑟は楚に流されており、楚王は彼を帰国させたいと思い、彼を韓の太子に立てるつもりです。今、楚兵十余万が方城の外(楚の北境の外)におります。公子はなぜ、楚王が万室の都(万戸の大邑)を雍氏(韓領)の傍に造るように仕向けないのでしょうか。そうすれば韓は必ずや兵を起こして雍氏を援けに行くことになります。その将になるのは公子しかいません。公子が韓・楚の兵を使って幾瑟を奉じ、国に迎え入れれば、彼が太子になったとしても彼は必ず公子の言を聞くようになり、楚・韓国境の領土を公子に封じることでしょう」
公子・咎はこの計に従った。
楚がこの計によって雍氏に邑を築いたおかげで公子・咎は韓と楚の国境を守る大軍の将となり、大きな力を持った。但し彼は幾瑟を迎え入れようとはしなかった。
それに怒った楚が雍氏を包囲した。
楚が雍氏を包囲したため、韓は秦に救援を求めた。しかし秦は兵を送らず、公孫昧を韓に派遣するだけであった。
韓の公仲多が公孫昧に問うた。
「あなたは秦が韓を援けると思いますか?」
公孫昧はこう答えた。
「秦王の言はこうです。『我が軍は南鄭か藍田を通って楚に兵を出し、韓軍を待つ』どちらも遠回りですので、あなたの望みにはかなわないでしょう」
公仲多が、
「本当にそうすると思いますか?」
と問うと、公孫昧は、
「秦王はかつての張儀の故智(以前の計謀)を真似することでしょう。楚王が魏を攻めた時、張儀は秦王にこう言いました。『楚と共に魏を攻めたとして、もし魏が破れて楚に帰順してしまえば、韓ももともと魏と同盟していますので、秦が孤立してしまいます。よって、秦は兵を出して魏を援けるふりをして実際は援けず、魏と楚を大戦なさるべきです。その間に秦は西河の外の地を取ることができます』今の秦もあの時と同じで、表面上は韓を援けると言いながらも実は陰で楚と関係を改善しておりましょう。秦軍が到着すれば、韓は秦の援軍が来ると思い、必ずや楚を軽視して開戦することになりましょう。しかし楚は秦が韓を援けないと知っていますので、迷わず韓と戦います。もしも韓が楚に勝てば、秦は韓と共に楚を凌駕し、三川(韓と周領。周の都がある)に武威を張ってから兵を還しましょう。もしも公が楚に勝てなければ、楚が三川の守りを固めますので(楚が三川を支配下に置くので)、韓は援軍を得られなくなります。私は秘かにこの国を心配しています。司馬庚(または「司馬唐」)が秦と郢(楚都)の間を三往復し、甘茂も昭魚(楚の宰相)と商於で会っています。韓に出兵した楚の印璽を撤回させ、楚に撤兵させるためと言っていますが、実際には密約があるようです」
と答えた。
公仲多が恐れて、
「それでは、どうするべきであろうか?」
と問うた。すると公孫昧はこう答えた。
「あなたはまず韓を救う計を考えてから、張儀が魏を惑わした計について考えるべきです。韓を援けるためにはあなたは国を挙げて斉・楚と同盟するべきです。韓が斉・楚と同盟したら、秦がつけいる隙がなくなりますので、秦も公仲多に国を委ねて楚の攻撃を解かせることでしょう。あなたが憎んでいるのはあくまでも張儀が得意とした詐術・陰謀であり、秦を無視することはできません。陰謀を憎んだとしても、秦との関係を絶つことはできないのです」
公仲多はこの忠告に従ったため、楚は雍氏の包囲を解いた。
楚との戦いを耐えた公子・咎の党である冷向が秦の宣太后の弟・羋戎に言った。
「太子・嬰が生きている頃から秦・楚が幾瑟を韓に帰国させることを恐れてきました。あなた様はなぜ韓に代わって楚に別の質を求めさせないのでしょうか。楚に幾瑟を帰国させて、別の人質を求めさせるべきです。もしも楚王がそれに従って質子(幾瑟)を韓に還すようならば、韓は秦・楚が幾瑟を重視していないと判断し、必ずや国を挙げて秦・楚と同盟することでしょう。そうすれば秦・楚は韓に迫って魏を窺うことができますので、魏氏は秦・楚を懼れて斉と同盟せず、斉は孤立することになります。もしも楚が質を韓に還さなければ、あなた様は楚にいる質子を秦に送るように求めてください。楚がそれに従わなければ、楚が彼を重視していることになりますので、韓は楚を怨みます。その結果、韓が斉・魏と共に楚を包囲し、楚は秦の援護を得るためにあなた様を尊重するようになります。あなた様が秦・楚から重んじられている立場を使い、韓に徳(恩)を積めば、韓は国を挙げてあなた様に接することでしょう」
冷向はこのように幾瑟の帰国を妨げるために様々な計を用いた。その結果、幾瑟は楚から韓に帰ることができず、公子・咎が太子に立てられることとなったのである。




