私が望むもの
中山の上層部は趙との和睦を結ぶ条件として提示された楽毅の軍の解散を行うと共に彼等は楽毅から軍権を剥奪し、軍人としての地位を取り上げて代わりに文官としての地位を与えた。
楽毅は意気消沈したまま、屋敷に戻るとそこに客人が来ていた。
「あなた様はどちら様でしょうか?」
客人に彼は訪ねた。
「私か、私は趙雍と言う」
客人はそう答えた。
(聞いたことのない名だ)
楽毅はそう思いながらもせっかく来た客である。もてなさなければならない。
「何もございませんが、ごゆっくりされよ」
客人はその言葉ににやりと笑う。
「正に意気消沈という風だな」
彼は笑う。
「自分の兵から切り離され、軍人としての立場を失われた。意気消沈するのも無理はない」
「よく知っておいでですね」
楽毅は目を細め、客人に警戒心を強める。
「どのような御用で参られたのでしょうか?」
「用か。そうだなもう話しを切り出すとするか」
客人は楽毅を見据え言った。
「私に仕えないか?」
「あなたに?」
見す知らずの男に過ぎない男に何故、仕えなければならないのか。
「お前の戦は素晴らしかった。だが、この国はお前の戦に水を差した。全く愚かな国だ。そんな国にいるぐらいならば、私に仕えろ」
まるで自分が一国の主かの如き、言動である。
「あなた様はもしや?」
「ああ、私は趙の国主さ」
客人は、趙の武霊王はそう言った。
「楽毅よ私に仕え、共にこの国を滅ぼそう。更に天下すらも取ろうではないか」
中山相手にあれほどの戦を行った王に今、楽毅は誘われている。それは自分の能力を認めてもらえたということである。
(嬉しいものだ)
素直に楽毅は武霊王の言葉を喜んだ。だが、
「お断り致します」
楽毅は拝礼しながらそう答えた。
「一国の王がわざわざこうして来たというのに、それを無下にするとは大した度胸だ」
武霊王は言動こそ怒りの言葉だが、決して怒りのような感情を滲ませなかった。
「何故と言っても良いか?」
「あなた様が私が望むものを下さらないと思ったからです」
楽毅の言葉に武霊王は眉を上げる。
「地位か?」
「いいえ」
「金か?」
「いいえ」
武霊王は髭を撫でる。
「では、何をお前は望んでいる」
楽毅は答えた。
「あなた様の言うとおり、この国は愚かなところがあります。何より、この国は……寒いのです」
環境という意味ではない。
「あまりにもこの国は寒い。凍えそうなぐらいに」
彼は抽象的な言葉を並べる。
「私が望んでいるのは、熱です。燃え上がるような熱を、炎が欲しいのです。心震えるほどの熱さが欲しいのです」
楽毅は武霊王を見据える。
「あなた様のおっしゃられたことは大変、魅力的です。しかし、それは私の力がなくとも成し遂げられるでしょう」
武霊王の戦と対峙したからこそ、楽毅はそう思った。
「あなた様の戦はまるで人形使いが人形を軽やかに操るが如く、統率力に優れ、操る兵は強力です。それにも関わらず、あなたは戦において驕ることの無い采配をされます。あなた様に匹敵するような采配を行える者は中々いない」
楽毅から見ても武霊王の才覚に匹敵する者はいないだろう。
「だからこそ私は必要ないでしょう」
圧倒的な才覚の持ち主に自分のような存在はいらないはずである。
「私を求めて下さる方に望むものは言葉にするのは難しいのですが……命を賭けても良いと思える何かを与えてくだされる方に私は仕えたいのです」
そういう人に自分は仕えたいのである。
「私にはそれが無いと?」
「はい」
武霊王は笑った。
「正直な男だ。しかし、そのようなものを与えてくれる者など中々いないであろうがな。見つからない中、この愚かな国の中で朽ちていくのか。愚かな」
「ええ、本当に愚かですね」
「全くだ」
武霊王は立ち上がった。
「良かろう。お前の意思はわかった。私はこれ以上何も言わん。さらばだ」
彼はそのまま屋敷を出ていった。
「趙王か……偉大な人だ」
初めて自分を評価してくれた相手に楽毅を敬意を持って、その後ろ姿を見つめ続けた。
この数日後、楽毅は国の帳簿を見て、無駄が多いためその意見書、及び改革案を提出したが、聞き入れられることはなかった。
「相変わらず、この国は寒い」
楽毅は苦笑した。
紀元前302年
秦の昭襄王、魏の襄王と韓の太子・嬰が臨晋で会した。
韓の太子は秦都・咸陽を訪問してから帰国し、秦が魏に蒲阪(または「蒲反」)を還した。
この時、楚の太子・横は人質として秦にいた。
だが、彼はある日、秦の大夫と私闘し、これを殺してしまったため、彼は楚に逃げ帰ってしまった。
これは楚の暗雲を招くことになる。
「暇だ」
髪の長い男が道を歩きながらそう呟いた。荘周である。
「そろそろ恵施をからかうのにも飽きたしな」
恵施とは名家に属する思想家の一人である。常識的な物事を自由な視点で考えを述べるというのが彼の主張だが、荘周からすると頭でっがちで、下手に物事を弄りまわしているに過ぎないと思っており、よく彼と問答を行い、言い負かしていた。
だが、彼は負けずと反論するので、荘周としては良い話し相手であった。
そんなことを続けている間に時代は大きく変化していた。
「そろそろ田文の名が輝くことになる」
彼は最近では、田文の近くにいることはなかった。理由としては最後に田文に会った後、青い牛の老人が現れ、こういった。
「お前は傾倒し過ぎている」
必要以上に拘りすぎるなと言われ、しばらく世の中から隠れていたのである。
「傾倒しているか……」
あの森の中で田文を拾ってから、自分は果たして田文に傾倒してしまっているのか……
そんなことを考えているとふと、不思議なものを見つけた。大きな黄色い石である。
「珍しい色をしている石だな」
そう呟いて、その傍を通った。そして、ふと振り返るとそこには黄色い石はなかった。
「なんだ?」
首を傾げながら、前を見て数歩歩き、再び振り返るとやはり黄色い石は無い。
「見間違えだろうか?」
そんなことを考えて前を向くとそこに、黄色い服を来た子供がいた。その子供は笑っている。
「お前はなんだ?」
思わず、荘周は訪ねた。
「黄石」
子供はそう答えた。
「そうか」
荘周はそう呟くと子供の横を通り過ぎていった。そして、しばらく歩き続けたが、黄石と名乗った子供は彼の後を永遠につけ回していく。
彼は荘周をつけ回しつつも何も言わず、荘周も何も言わない。
道家思想の大家である荘周とある人物に導きを与えることになる黄石の奇妙な二人旅が始まった。
荘子の存在を今まで忘れていたとかそういうわけではないのです。




