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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第四章 天秤傾く

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胡服騎射

 趙の武霊王ぶれいおうが北上して中山の地を巡視してから房子から代に行き、更に北に向かって無窮に至った。

 

 代から北は塞外になり、大漠(砂漠)が数千里も続くため、「無窮」と呼ばれていた。

 

 その後、西に向かって黄河に至り、黄華山を登った。


 彼は楼緩を招いて言った。


「先王は世の変化に乗じて南藩の地の長となり、漳水と滏水の険をつなげて長城を築かれた。また、藺と郭狼を取り、荏で林人(林胡)を破った。しかしながら未だ先王の功は完成していない。今、中山が我が腹心にあり、北には燕、東には胡、西には林胡、楼煩、秦、韓の国境が接しているにも関わらず、強兵の救いがない。これでは社稷を亡ぼすことになるが、どうすればいいだろうか。高世の名(世俗を超越した名声)がある者は必ずや遺俗の累(習俗の譴責、障害)を受けるもので、新しいことを始めようとすれば、古い考えによる譴責を受けるものである。私は胡服に改めるつもりだ」


 胡服とは異民族の服装のことで、武霊王がやろうとしているのは胡服騎射のことである。


 胡服騎射というのは異民族の服を着て馬に乗り、矢を射ることである。当時、中原の人々は袍という裾が長い着物を着ており、袍を着たまま馬に乗るには不便であった。そのため中原の人々は馬車を使い、一方、騎馬は文化が遅れた異民族の習慣とされていた。

 

 しかしながら馬車(戦車)は平地での戦いならば、威力を発揮するものの山岳地帯での戦いや攻城戦では役に立たない。


 また、春秋時代の軍隊は主に戦車に乗った大夫・士によって形成されており、戦闘の規模もあまり大きくはなかった。しかし、戦国時代になると国民を総動員した大規模な戦争が繰り広げられるようになり、戦争の形態も多様化、複雑化していた。


 しかも、周辺の異民族は元々騎馬の習慣があり、圧倒的な機動力をもつ脅威となりつつあった。

 

 そこで、武霊王は動きやすい胡服(異民族の服)を導入し、百姓に教えることで騎馬の習慣を育てることにしたのである。

 

 これに縦横家の一人でもあり、武霊王の寵愛を受けている楼緩は同意したが、宰相である肥義は不服の表情を浮かべた。彼に武霊王は言った。


「簡・襄主(趙鞅ちょうおう趙無恤ちょうむじゅつ)の烈(功績)は、胡・翟から得る利を考慮したために立てられたのである。人臣とは、孝弟・長幼・順明の節を持っていれば、貴寵を得ることができ、民を補い、主の業を増せば、通(理に通じていること)となることができるのだ。この二者は臣下の分である。今、私は襄主の跡を継ぎ、胡・翟の地に領土を拡大したいと思っているが、終生、そのような忠臣に会ったことはない。我々が胡服に改めて敵が弱くなれば、少ない力で多くの功を得て、百姓の労を尽くさずに古の勳功を継承することができるだろう。高世の功(世俗を越えた功績)がある者は遺俗の累(習俗の譴責、障害)を負い、智謀のある慮者(知者)は驁民(頑迷傲慢な民)の怨を受けるものである。今、私はこの胡服騎射を百姓に教えたいと思っているが、世は必ずや私を議論するだろう。どうすれば良いか?」

 

 肥義は渋い表情のまま言った。


「事を疑えば、功は無く、行動を疑えば名を成せないと申します。王が遺俗を棄てて譴責を受けるという考えを定めたのであれば(古い慣習を棄てる決意をしたのであれば)、天下の議を顧みる必要はございません。至徳を論じる者は世俗と和すことなく、大功を成す者は大衆と謀らないものです。昔、舜は舞踏によって苗族を感化させ、禹は裸国で服を脱ぎました。これは欲を養って志を満足させようとしたからではございません。このような方法で徳を宣揚して功を成す必要があったのです。愚者は事が成ってもそれに気がつきませんが、智者は形が現れる前にそれを察するものです。王は何を疑っておられるのでしょうか?」


 王が決めたことならば反対はしないということである。

 

「私は胡服を疑っているのではない。天下が私を笑うのではないかと恐れるのだ。狂夫が楽しむことを智者は悲哀とし、愚者が笑うことを賢者は本質を見抜くことができる。この世に私に順じる者がいれば、胡服の功は計り知れないものとなることだろう。逆にたとえ全世の者が私を笑ったとしても、胡地・中山は必ず私が有すことになる」

 

 武霊王は胡服に改める決意をし、自ら胡服を着るようになった。

 

 趙の国人は異民族の習慣に染まることに反対しました。公子・成も病と称して入朝しなくなった。

 

 武霊王は使者を送って公子・成にこう伝えた。


「家では親の命を聞き、国では国君の命を聞くものである。今、私が民に胡服へ換えることを教えているにも関わらず、汝はそれに服そうとしない。私は天下がこれを議論(批難)するのではないかと心配している。国を制するには常(常道)があり、民を利すことを本(根幹)とするべきである。政治に従うには経(法則)があり、命令を実行することが最も重要とされる。明徳はまず賎(下の者)から論じられ、政治に従う時は貴(上の者)から信を作らなければならないのだ。あなたが模範になることで、胡服の功を完成させたい」

 

 公子・成は再拝稽首して使者に答えた。


「中国は聖賢の教えに従い、礼楽を用いている場所であるために遠方の者が観赴(赴いて学ぶこと)し、蛮夷が模倣しているのです。しかし今、王はこれを棄てて遠方の服を身に着けようとされています。これは古の道を変えて人の心に逆らうことになります。王は熟考なさるべきです」

 

 使者が帰って報告すると、武霊王は自ら公子・成に会いに行って言った。


「我が国は東に斉と中山があり、北に燕と東胡があり、西に楼煩があり、秦・韓の辺(国境)とも接している。もしも騎射の備えがなければ、どうしてこれを守ることができるだろうか。以前、中山が斉の強兵を借りて我が地に侵暴し、我が民を奪い、水を引いて鄗を包囲した。もし社稷の神霊が無ければ、鄗は守れなかっただろう。先君はこれを我が国の醜(恥)とした。故に私は服を換えて騎射を行い、四境の難に備えて中山の怨に報いようと思っているのだ。しかしあなたは中国の俗に従って変服の名を嫌い、鄗の醜を忘れている。これは私が望むことではない」

 

 公子・成は王の考えが変わらないとしてやっと命に従った。

 

 その後、武霊王は公子・成に胡服を下賜し、翌日、公子・成はそれを着て入朝した。

 

 こうして胡服令が発せられ、騎射の士が集められるようになった。

 

 強引とも取れるこの胡服令によって趙の兵は強くなった。中山に趙の脅威が近づきつつあった・


 



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