魏冄
遅くなりました。
「白起」
向寿は血だらけになりながら戻ってきた彼を呼びつけた。
「何でしょう?」
「これから宮中を制圧する来い」
「何故に?」
白起がそう聞くと向寿は言った。
「宮中を制圧し、天の主上がお選びになられた公子・稷を即位させるのだ」
「主上がそのように?」
「ああ、兄上がそう申していた」
しばし無言の時が生まれた。
「魏冄様が申されるのであれば、主上のお言葉なのでしょう」
白起はそう言うと膝を降ろし、手を合わせ祈った。それを見て、向寿は安堵する。
(全く、兄上は何故、こんな頭のおかしい男を使うのか)
白起はまだ楚にいた時に魏冄が拾ってきた男である。
「我らに背く者は罪深き者だ。存分にやると良い。しかし、我らに従おうとする者は同志だ。良いな」
「ええ、わかりました」
白起は立ち上がると頷いた。
「では、先ずは羋八子様の警護の兵を用意しましょう。次に恵文太后と他の公子、または重臣たちとの接触を図らないようにしましょう。そうすれば余計な手間がなくてよろしいでしょう」
「ああ」
(こうやって突然、まともなことをしゃべりだす)
こういうところがこの男の不気味さである。
「もしくは恵文太后を始め、皆殺しにするかですが」
「それはならん……主上はそれをお望みではない」
「ええ、そうでしょう。ならば前者の方で行きましょう」
そう言うと白起は血を吹かずに宮中制圧に動き出した。
「ご加護があらんことを」
彼はそう呟いた。
「兄上、早くお戻りをこの男を使うのは骨が折れる」
向寿はため息をついた。
魏冄は必死に馬を駆けさせていた。向かう先は現在、魏を攻めている樗里疾の元である。
「お急ぎ、将軍にお会いしたい」
彼は陣営の中に入ると急いで樗里疾に会った。
「確か魏冄と申されたでしょうか?」
「はい、左様でございます」
魏冄は拝礼した。
「それでどうなされましたか?」
「ここだけの話しです」
彼は声を低くする。
「王が亡くなりました」
「なんと?」
樗里疾は思わず立ち上がった。
「本当のことです」
魏冄は武王の死の詳細を話した。
「まだ、このことは私とあなた様など一部の者しか知りません」
「甘茂殿も知らないのでしょうか?」
「はい」
樗里疾は自らの髭を撫でる。
ここで問題なのは、武王の死ではない。その死を一部の者しか共有しておらず、そしてそれを自分に教えた。それを意味するのは何かということが問題である。
「それで何故、私にそれを教える」
(ここが勝負だ)
魏冄は言った。
「あなた様に王位を継いでもらいたいのです」
樗里疾は眉を上げた。
「私が?」
「ええ」
さて、この目の前の男がどういうつもりなのか。それをはっきりさせなければならない。
「私は先君の弟であるものの。、それ以上に王位を継ぐべき公子たちがいます。私に王位を欲する気はありません」
彼の言葉に魏冄は言った。
「しかし、王位を継がなくとも利用することはできます」
「それはあなたでしょうか。それとも別の者か?」
樗里疾は眉をひそめながらそう言った。
「私であり、別の者でもございます」
魏冄は正直にこの機会を利用していることを認めた。樗里疾は頭の回る男である。下手に詭弁を弄せば、敵意を受ける可能性が高くなる。そうなるよりは隠し事をせずに誠実にあるべきである。彼はそう考えたのである。
「なるほど、正直な男ですね」
樗里疾は笑った。
(甘茂ではこうはいかない)
魏冄がこの事態で樗里疾を選んだ理由は先ず、彼が王族であること、次に冷静な人物であることである。
甘茂は自分の我を通すために無茶なことを行うほど、意思の強い人物である。しかし、そういった人物がこの難しい状況を収めるには不向きな人物と言える。
「それであなた以外に利用しようとするであろう人物は誰ですかな?」
「恵文太后」
魏冄がそう言うと樗里疾は頷いた。それを見て、魏冄は彼の中である天秤がこちらに傾いたことを確信した。
「恵文太后が立てるとすれば誰でしょうか?」
「恐らく公子・荘でしょう」
公子・荘ははっきり言って、家としての格が低い。だが、それは恵文太后としては都合が良い。自分が国政に口出しをする上では。
だが、それでは国政に混乱を起きる可能性がある。また、武王からの方針である韓、魏への侵攻を行うというものも変えられる危険性がある。
(確か魏冄の姉は楚の者)
楚とのつながりを持って、韓、魏への対抗とする。それが秦が行うべき術であろう。
だが、問題は擁立すべき公子・稷が燕にいることである。
「公子・稷を如何にする?」
「それは私にお任せ願えないでしょうか?」
魏冄の言葉に樗里疾は頷いた。
「いいでしょう。あなたに任せましょう。しかし、手を貸すことはないのでそれはご理解してください」
「承知しております」
(これで良い)
樗里疾は手を貸さず、このまま魏を攻めてもらえば、諸国への牽制になる。
(ここからは私の勝負だ)
魏冄は公子・稷を燕から招くため、その間にある趙と中山に使者を出した。
彼の使者を受けた中山において、楽毅が言った。
「すぐさま了承なさるべきです」
中山は外交的に孤立している。しかし、この状況を利用すれば、大国・秦とのつながりを得ることができる。
だが、中山の政府はここで鈍さを見せた。
「直ぐに答えを出すべきです。早さは誠実の表れです。早く答えを」
しかし、誰も彼の言葉を聞き入れなかった。
(どれほど努力しても、聞き届けてもらわなければ意味がない)
楽毅は寒さに震えた。
一方、趙の武霊王はこの使者を迎え入れるとすぐさま、書をしたためて、魏冄へ送った。
「早いな」
魏冄は趙からの使者の早さに舌を巻きながら書簡を開いた。そこにはこう書かれていた。
「我が国の者を使って頂ければ、我が国を通すことを許可しましょう」
(趙人を使え……)
この奇妙な相手の書簡に、少し悩むと魏冄は呟いた。
「なるほど、そういうことか」
彼は趙の使者に言った。
「よろしい。直ぐにとはいきませんが、あなた様の臣下を宰相に据えましょう」
宰相を他国の者にする。そんな重大なことをここで彼は独断で決めた。批難を受けることを覚悟してのことである。
(趙の者を宰相にする。そのことによる批難と公子を招くことで得られるであろう利益は十分に釣り合う)
この独断による決断の早さは武霊王に好印象を与えた。
「これほど早く答えを出してもらえるとはな。良かろう。公子を燕から招き秦にお送りする」
燕は趙からの使者を受け、直ぐに公子・稷を送ることを同意し、送った。
「よし後は樗里疾将軍と合流せねば」
魏冄は樗里疾と合流し、彼と共に都に凱旋した。
「兄上、既に宮中は制圧しております」
彼等を向寿が迎え入れた。
「あれは?」
魏冄は宮中の傍にある首の無いまま貼り付けにされている十人ほどの死体が見た。
「我らに逆らう動きを見せたため、白起がやりました」
「そうか。思ったよりも殺した者が少なかったようだな。よくやった」
そのまま魏冄は樗里疾と共に宮中に入り、公子・稷を即位させた。これを秦の昭襄王という。
そして、樗里疾は宰相になった。しかし、魏冄は特に大きな地位には着かなかった。
「よろしいのですか。兄上、この事態でもっとも活躍されたのは兄上ですよ」
向寿はそう言うが、魏冄は首を振った。
「まだ、私は高位に立つほどには釣り合っておらぬ」
戦国時代と通して、この時がもっとも秦という国が危機にあったと言えるかもしれない。しかし、その事態を魏冄は素早く解決に導いた。
秦の新たな主役の時代はもうすぐ訪れようとしていた。




