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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第四章 天秤傾く

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怪物退場

 大変遅れました。

 楚から秦に帰国する途中、張儀ちょうぎは韓に行った。

 

 張儀が韓の襄王じょうおうに言った。


「韓は地が険しく山が多いため、生産できる五穀は菽(豆類)でなければ麦(雑麦)しかございません。国には二年分の食糧の蓄えもなく、士卒も二十万を越えておりません。一方、秦には百余万の被甲(甲兵)がいます。また、山東の士は甲冑をつけなければ戦うこともできませんが、秦人は甲を棄てて裸足で敵に臨んでも、左手で人頭を持って右手で生虜(捕虜)を得ることができます。秦が孟賁、烏獲のような士を使って服従しない弱国を討伐するのは、千鈞の重さがある物で鳥の卵を打つようなものであり、万に一つの幸(幸運)もございません。王が秦に仕えなければ、秦は甲兵を東下させて宜陽を占拠し、成皋を塞ぐことでしょう。そうなれば、韓は分裂し、鴻台の宮も桑林の苑も王のものではなくなってしまいます。王のために計るとすれば、秦に仕えて楚を攻撃し、禍を転じて秦を喜ばせるべきです。これ以上の計はございません」

 

 襄王は恐れて、同意した。

 

 張儀が秦に帰って報告すると、秦の恵文王けいぶんおうは張儀に六邑を封じた。この功績から張儀は武信君と号した。

 

 恵文王は張儀を東の斉に派遣した。

 

 張儀が斉の湣王びんおうに言った。


「従人(合従の提唱者)は王にこう申されていることでしょう。『斉は三晋に守られており、地は広く民は多い、兵は強く士は勇敢であるため、百の秦があろうとも斉に対して何もできない』と、王はこの意見を賢とし、実を計ろうとされていません。今、秦は楚と婚姻関係を結び、昆弟(兄弟)の国になりました。韓は宜陽を秦に献上し、魏も河外(秦の河外なので河東)を譲りました。趙王も秦に入朝し、河間を割き、秦に仕えようとしています。王が秦に仕えなければ、秦は韓・魏に斉の南地(南境)を攻撃させ、趙兵を総動員させて清河を渡らせ、博関に迫るでしょう。その結果、臨菑も即墨も王のものではなくなることになります。国が一度攻撃を受ければ、秦に仕えたくても手遅れになります」

 

 湣王は張儀の意見に同意した。

 

 次に張儀は西の趙に行った。張儀は趙の武霊王ぶれいおうに言った。


「王が天下を率いて秦に対抗されていますので、秦兵は函谷関から出ることができず既に十五年になっております。王の威望は山東に行き渡っているので、我が国は恐懼して繕甲厲兵(軍を整えること)し、農業に力を入れて粟を蓄えてきました。惧れを抱いて警戒を解かなかったのは、王が我が国の罪を問うと思っていたからです。しかし今、王の力のおかげで巴・蜀を平定し、漢中も併せ、両周を包囲して(紀元前314年の韓を破って和を結んだことを指す)白馬の津に至りました。秦は遠い僻地にございますが、心中から趙を憎んで久しくなります。今の秦は敝甲凋兵(敗戦して疲弊した軍。謙遜の言葉)を澠池に駐軍させており、今後、北は河(黄河)を渡り、東は漳(漳水)を越えて番吾を占拠し、邯鄲(趙都)の下で諸郡を合流させて、甲子の合戦(周の武王ぶおうが商の紂王ちゅうおうを破った戦い。周と商は甲子の日に牧野で戦った)に倣い、殷紂を正した故事を再現させたいと思っております。よって謹んで使臣(張儀)を派遣し、まず王の左右(近臣)にこう伝えさせました。今、楚は秦と昆弟(兄弟)の国となり、韓と魏も東藩の臣を称し、斉は魚塩の地を献上しております」


 斉は秦に土地を譲っていない。趙を脅すための嘘である。


「これは趙の右肩を奪ったのと同じでございます。右肩を失ったにも関わらず、人と戦い、党を失って孤立すれば、危難から逃れたくても逃れることはできません。秦は三将軍を発する予定です。一軍は午道(趙の東、斉の西)を塞ぎ、斉に命じられ、清河を渡らせて、邯鄲の東に駐軍させます。一軍は成皋に駐軍し、韓と魏を河外に駐軍させます。最後の一軍は澠池に駐軍します。四国が一つになって趙を攻撃し、趙が服せば、その地を秦・斉・韓・魏で四分するつもりです。このような状況下において私が秘かに王のために計るとすれば、秦王と直接会って結盟し、常に兄弟の国となることを約束されるべきです」

 

 武霊王も張儀の策に同意した。


「不気味な男よ」


 武霊王はそう呟いた。

 

 張儀は北の燕に行った。張儀は燕の昭王しょうおうに言った。


「趙王も既に秦に入朝し、河間の地を割いて秦と和を結んでおります。もし王が秦に仕えなければ、秦は甲兵を雲中・九原(燕の西)に下し、趙を駆って燕を攻めさせることでしょう。そうなれば、易水も長城も王のものではなくなってしまいます。しかも、今の斉や趙は秦にとって郡県のようなものであり、敢えて軍を起こして反撃するとは思えません。王が秦に仕えれば、長く斉や趙の患から逃れることができましょう」

 

 昭王は常山(北嶽・恒山)の尾(燕の西南界)にある五城を秦に譲って和を求めた。


蘇代そだい蘇厲それいが可愛く見えた」


 と、昭王は呟いた。

 

 韓、魏、斉、趙、燕との連衡に成功した張儀が秦に帰った。

 

 しかし秦都・咸陽に入る前に恵文王が世を去ったという報告がもたらされた。


 恵王の子・蕩が即位した。これを秦の武王ぶおうという。


 張儀にとってこれはあまりにも良くない知らせだった。

 

 武王は太子だった頃から張儀を好まなかった。そのため彼は即位するとすぐに群臣が張儀の欠点をあげつらうようになった。張儀の地位を下ろそうという意図は見え見えであった。

 

 諸国は張儀と秦王の関係がうまくいっていないと知り、次々に秦から離れて再び合従になびくようになった。


 ある意味、張儀は諸国に恐れられたと同時に信頼もされた。それほど張儀という男を畏怖していたと言っていい。


 そのため諸国は武王が張儀を信任しないと見て、秦から離れたのである。


 武王の張儀に向けた悪感情によって秦の五カ国との外交を無下にしてしまったと言えるかもしれない。


 紀元前310年

 

 張儀が武王に進言した。


「王のために計るとすれば、東方で変事があれば、王は多くの地を得ることができるのです。私は斉王が私を強く憎んでいると聞きました。斉は必ずや私がいる場所を攻撃します。私の不肖な身を魏に行かせてください。そうすれば斉が必ずや魏を攻めることになりましょう。斉と魏が兵を交えて勝敗がつかない間に、王は韓を攻めて三川に入り、天子を擁して図籍(天下の版図)を掌握してください。これこそが王業というものでございます」

 

 張儀を厄介払いしたい武王は同意した。

 

 張儀が魏に行くと、斉は魏を攻撃した。襄王が恐れるのを見て張儀が言った。


「心配はいりません。私に斉兵を退かせてください」

 

 張儀は自分の舍人を楚に送った。

 

 舎人が楚で工作したため、楚の使者が斉に向かい使者が湣王に言った。


「王は秦に張儀を重んじさせようとしています」

 

 湣王がその理由を問うと、使者はこう言った。


「張儀が秦を去ったのは、もともと秦王との間に謀がございます。張儀は斉と魏が互いに争っている間に、秦に三川を取らせるつもりなのです。今、王は本当に魏を攻撃されました。王は自ら国内を疲弊させ、国外では同盟した国を攻撃しているため、秦王に張儀を信任させることになるのです」

 

 納得した湣王は魏から兵を還した。

 

「やれやれ首が繋がっているだけマシであろうなあ」

 

 張儀は自分の首を撫でた。


 彼は魏で宰相になって一年後、世を去った。








 張儀という縦横家の大人物は舞台から退場した。


 ここで縦横家への当時と後世の評価を紹介しよう。


 先ずは『資治通鑑』の編者・司馬光しばこうはこう述べている。


「張儀と蘇秦は縦横の術により、諸国の間を遊説し、高位と富貴を得ることができた。そのため天下が争って彼等に倣ったのである。また、魏人で公孫衍という者もおり、犀首と号した。公孫衍も談説によって名を知られている。その他にも蘇代、蘇厲、周最、楼緩といった徒が天下に遍き、辯詐によって高低を争ったが、それをすべて記録することはできないほどである。その中でも張儀、蘇秦、公孫衍が最も名を知られた者であると言えるだろう」


 次に孟軻もうかの言葉である。


 ある人が孟軻に言った。


「公孫衍や張儀は大丈夫とみなすべきでしょう。彼等が一度怒れば、諸侯を懼れさせ、安居すれば天下は静まりました」

 

 孟軻は答えた。


「大丈夫とみなすには足りません。君子とは天下の正位に立ち、天下の正道を行い、志を得れば、民と共に正道を行い、志を得られなければ、一人でその道を行い、富貴になろうとも淫(道から外れること)とならず、貧賎となろうとも移(信念を変えること)とならず、威武を持っても力で人を屈服させることはございません。このような人物を大丈夫というのです」


 次に漢代の揚雄ようゆうの言葉である。


 ある人が揚雄に問うた。


「張儀と蘇秦は鬼谷の術を学び、縱横の言を習得し、中原を十余年も安定させたと申しますが、その通りでしょうか?」

 

 揚雄は、


「彼らは詐人(詐術・詭弁の士)の類に過ぎず、聖人ならば憎むことでしょう」


 と言うとある人は次にこう言った。


孔子こうしの言を読んでから張儀や蘇秦の事を行ったら如何でしょうか?」

 

 揚雄はこう言った。


「鳳の鳴き声がありながら鷙の翰(羽毛)をもつようなものである」

 

 ある人はこう言った。


「しかし子貢しこうも同じだったのではございませんでしたか?」


 すると揚雄は、

 

「子貢は乱があったにも関わらず、これを解決できないことを恥とした。しかし張儀や蘇秦は遊説をしながら富貴を得られないことを恥とした」


 彼等と子貢との差は天地の差があるとした。

 

「張儀と蘇秦は前人と異なることをしましたので、才術があったといえるのではありませんか?」

 

「昔の帝王(堯・舜)は奸佞の者を退けたが、奸佞の者に才がなかったわけではない。才は才でも、我々が思っている才ではないのである。才があろうとも佞臣ならば近づけてはならない」


 三者の言を見て、後の二人は張儀、蘇秦の類を吐き捨てるかのごとく嫌っていることに対して、司馬光は面白いことに感情を抑えたような言動をしている。


 彼は良くも悪くも綺麗好きな人物である。それにも関わらず、張儀や蘇秦の類をあまり好きではなさそうだったにも関わらずである。


 歴史家かどうかの違いだろうか?


 ともかく張儀の退場により、時代は新たな時代へと変わりつつあった。



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