先ず隗より始めよ
燕の抵抗は激しく、ついに斉軍は燕からの引き上げを決めた。
「何も得られなかった戦だった」
田文はその決定にため息をついた。
燕での戦いにおいて斉には正義はなかった。本当ならば、燕の都を占領するのに止めれば良かったのである。もっと言えば、趙が介入した時点であれ以上の戦を止めれば良かったのである。
「悲しいことだ」
敢えてこの戦で得られたとすれば、燕の人々の怒りと憎しみ、天下の不信感であろう。
「斉も大分変わった」
かつて斉には多様な人材が多かった。しかし、燕との戦から二年経つうちに、孟軻は斉を去り、淳于髠はその期間の中で世を去った。
(親しい人たちがいなくなっていくな)
馬車に揺られながら彼はそう思っていると馬車が突然、止まった。
「どうした?」
「いえ、道端に子供が倒れておりまして」
田文はそれを聞くと慌てて降り、その子供を見た。子供は苦しそうに胸元を抑えていた。
「主よ。ここから医者に運ぶよりも食客の中に医学に通じている者がおります。その者に見せた方が良いでしょう」
「そうだな。急ごう」
子供を彼等は屋敷に大急ぎで運び、食客の一人に子供の診察を行わせた。
「主よ。取り敢えず、薬を飲ませましたので、状態は安定しました。しかし。この病は治ることは無いでしょう」
「そうか……」
田文はため息をつく。
「おう坊主。名前はなんて言うんだ?」
鶏鳴が子供にそう訪ねた。
「田……単……」
「田単と言うのか。もう大丈夫か?」
「うん」
そうかと鶏鳴は彼の頭を撫でる。
「狗盗、直ぐに親を探してくれ」
「もう既に探させています」
「流石だ」
しばらくして、田単の親がやって来た。
「おお、確か孫臏先生の元にいましたね」
「ええ、お久しぶりです」
田単の親はかつて孫臏の元で学んでいた弟子の一人であった。
「今ではしがない一役人に過ぎませんがね」
「そうだったか。知らなかった」
「ああ、だからと言って、重く用いるとかはやめてくださいね。今の地位ぐらいがちょうど良いですし、誇りを持ってやってますから」
田文は彼の言葉に微笑む。
「立派だな」
田文は親の後ろにいる田単に近づき言った。
「君のお父上は立派な人だ。君も同じくらい立派になるんだよ」
「う、うん」
田単は小さく頷いた。
「では、これで」
「ええ、また会いましょう」
田単の親は子を連れ、去っていった。
(まだ、斉にはあのような者がいる。大丈夫だ)
この時の田文は目を細めながらそう思った。
斉が退却した燕では民衆たちは公子・職を王位に即けた。これを燕の昭王という。
昭王は、自ら死者を弔い、孤(身寄りがない者)を慰問し、百姓と甘苦を共にした。周りは働き過ぎと止めるほどであったが、彼は首を振り、積極的に自分から働いた。
「少しは休まれては如何ですか?」
郭隗がそう言ったが、昭王は聞き入れなかった。
「早く国を復興させなければなりません」
「休むことも大切ですよ」
昭王はそれでも休もうとはしなかった。
「こうでもしていないと王の責務に押しつぶされそうになってしまうのです」
「ならば、尚更お休みになられるべきです。倒れてしまえば、意味がないでしょう」
昭王はふっと息を吹くと頷いた。
「わかりました。少しは休むとします」
「ええ」
昭王は仮面の奥の目を細めながら言った。
「国の復興はどれぐらいかかるでしょうか?」
「一、二年という訳にはいかないでしょう」
郭隗はそう答えた。
「何より、先刻までの戦によって誰もが疲弊しております。無理をされるべきではありません」
「その通りです」
昭王は頷いた。
誰もが親しい人を、愛するべき人を失ってしまった。
(その責任は全て私にある)
そう思うからこそ、休むことを躊躇してしまう。
だが、誰もが休息を必要としている。そのことは王である自分とて理解している。しかし、
(斉を討つべし)
内なる声が、正義がそう叫び続けていた。昭王が郭隗に言った。
「先生、斉は我が国の国乱に乗じて我が国を襲いました。私は燕が小さく力も少ないため、報復できないことはよく理解しています」
彼の言葉を郭隗は真剣に聞く。
「しかしもしも賢士を得て国事を共にし、先王の恥を雪ぐことができるというのであれば、それは私の願いです。先生が見て能力があると思う人材がおりますれば、私自ら仕えに行くことでしょう」
(燕が斉に勝つ)
それは難しい。郭隗であろうとも誰であろうとも思うことである。しかし、
(この方以上にこの時代に民を思いやれる王がいるだろうか)
内乱で傷ついた民たちを昭王は自ら慈しみ励まし続けた。
(自分の犯した罪を悔いて、それでも民を思いやるこの方を私は勝てせたい)
郭隗は言った。
「昔、ある国君が千金を涓人(宮内で掃除等をする身分が低い者)に与えて千里の馬を求めさせました。涓人は既に死んでいた馬を見つけ、五百金でその馬を買いました。涓人が戻ると国君は激怒しましたが、涓人はこう答えました。『死んだ馬でも大金で買ったのです。生きた馬ならば人々はなおさらだろうと思うことでしょう。馬はすぐにやって来ます』果たして、一年も経たずに三頭の千里の馬を得ることができました。王が士を欲するというのであれば」
彼は拝礼する。
「先ずは隗(私)より始められよ。私よりも賢才がある者が千里の距離も厭わず訪れることでしょう」
昭王は頷き、彼の手を取った。
「教え感謝します」
早速、昭王は郭隗のために宮殿を築いて師事した。この時の状況を簡単に言ってしまえば、広告塔を立てたと思えば良いだろう。
また、現代のような電子機器のような情報社会ではないため、情報伝達が難しい。そんな中で宣伝役として活躍したのが、
「私たちの出番ですね」
「出番~」
蘇代と蘇厲である。
「頼む」
昭王は拝礼を行った。それを見て二人はけらけらと笑う。
「違うと思いますよ」
「そうそう、王様なんだからね?」
二人はそう言うと昭王は首を少し傾け、その後、頷くと言った。
「職務を果たせ」
「「仰せのままに」」
二人は拝礼して答えた。
こうして蘇代と蘇厲は天下を周り、燕が多くの人材を求めていることを広めた。その結果、各地の賢士が燕に集まるようになった。趙からは劇辛が燕に移り、斉から鄒衍がやって来た。
「結構、集まったな」
昭王は予想以上だという顔をしながらそう言った。
「ええ、しかしながら少々物足りないというのが本音です。かつて魏には呉起、李悝、西門豹が、斉には孫臏、淳于髠がいました。彼等に比べますといささか劣るかと」
強国と呼ばれた国は多くの質の良い人材がいた。しかし、燕は人材は集まっているが彼等ほどの人物はまだいない。
「難しいものだ」
「ええ、今は慌てずにいくしかありません」
「はい」
(いずれ、斉を討つ。だから少しの間だけ待っていてくれ)
昭王は内乱で世を去ってしまった者たちを思いながらそう言った。




