もう一度、この旗を掲げよう
斉の宮中では、意見が二つに割れていた。
燕での内乱は斉の介入によって、終わったも同然であるが、燕を併呑してしまうべきと主張する者たちと併呑すべきではないという意見の者たちで対立したのである。
斉の湣王は併呑に傾いていたが、田文らは強く反対していた。
埓があかないと判断した彼は孟軻に問うた。
「ある者は私に燕を併呑するべきではないと言い、ある者は私に燕を併呑するように勧めている。今回、万乗の国が万乗の国を討伐し、五旬(五十日)で征服することができた。人力だけではこのようなことはできなかったことだろう。そのため燕を併呑しなければ必ずや天殃(天の咎)を受けることになると思うが、併呑するべきだろうか?」
(先生は反対なさるはずだ)
田文はそう思いながら見ていると孟軻は答えた。
「燕を併呑することで燕の民が喜ぶのならば、併呑なさるべきです。古にもそうした者がいます。周の武王がそれです。燕を併呑しても燕の民が喜ばないというのならば、併呑なさるべきではありません。古にもそうした者がいます。周の文王がそれです。万乗の国が万乗の国を討伐し、民が簞食(竹の器に盛った食事)・壺漿(飲物)をもって王軍を迎え入れるのに、他の理由はございません。民は水火(戦争の禍)から免れたいだけです。もしも水がますます深くなり、火がますます熱くなるようならば、燕の民は他国に遷ってしまうことでしょう」
天命に従って決断をすれば良いという意見である。この戦には天命があると思っている湣王は、
「併呑することを決定する」
燕の併呑の方針を決定した。
決定がされた後、田文は孟軻に近づき言った。
「先生、どういうおつもりか?」
孟軻ならば止めてくれると思っていただけに、田文は彼を責めた。
「決定を下すのは王の役目だ。その決定を下すための材料を示すだけだ」
「しかし」
「田文よ。私はあくまでも賓客の立場だ。助言を行い正しい方向を示すのはできる。だが、決断を行うのは王だ」
彼は田文を指差す。
「田文、以前言ったはずだ。君臣関係には気を付けよと、お前は君臣の関係を乱し始めてはいないか?」
田文は黙り込む。それを見て、孟軻は背を向けそのまま去っていった。
蘇代と蘇厲は趙の武霊王に謁見していた。
「つまり、斉を追い払うために軍を出してもらいたいということだな」
「左様でございます」
蘇代はそう答えた。
「ふむ、それによって我が国のどのような利があるのか?」
「斉によって燕を占領されてしまえば、王がお望みであります中山への出兵を行う上で余計なちょっかい出されてしまうことは王はお望みではないはずです」
蘇厲がそう答える。それに蘇代が続く。
「左様でございます。また、燕の心を掴み、これと結ぶことにより、横暴と言うべき斉に対して睨みを効かせることができましょう」
二人は燕を救う上での利を説いた。
「ふむ、良かろう。公子・職を大将にし、援軍として向かわせることにしよう」
「感謝します」
二人は拝礼した。
趙が燕の救援に動く。それによって他の諸侯も動きかねない状況になった。
それを知った湣王は孟軻に問うた。
「諸侯の多くが私を討とうとしている。どうするべきだろうか?」
孟軻はこう答えた。
「元々七十里の地しかなかったにも関わらず、天下に政治を行うことができた例には、湯王がいます。しかし千里の地を擁しながらも、人を畏れるとは聞いたことがございません」
千里もの地を擁していれば、本来、人を畏れる必要はない。今、諸侯を畏れるのは、それなりの理由があるためであるということである。
「『書(尚書・仲虺之誥)』にこうあります。『我々の王を待とうではないか。王が来れば生存できるのだから』と、燕が自国の民を虐げたために、王は燕を征伐されました。民は水火の中から自分を援けることができると思ったから、簞食・壺漿をもって王軍を受け入れたのです。その父兄を殺し、子弟を捕まえ、宗廟を破壊し、重器(財宝)を持ち出すようなことが、どうして許されることでしょうか。天下はもともと斉の強盛を畏れて警戒していたのです。今回、更に倍の地を併呑したにも関わらず、仁政を行わなかったために天下の兵(討伐)を招くことになったのです。王は速やかに令を発し、旄倪(老幼の民)を釈放して重器の略奪を禁止し、燕の衆(民)と商議して燕君を置いてから去るべきでしょう。そうすれば禍から逃れることもできるでしょう」
孟軻はこの湣王は難しいと考えていた。そのため回りくどいやり方が必要であると思っていた。こう言った駆け引きは孔子にはなかったものである。
だが、彼の予想以上に湣王は君主としては下であった。彼は孟軻の諫言を聞き入れなかった。
湣王は暗君と言っていい。その暗君足る所以の一つは戦の終わらせ方が下手であるという部分がある。
(これは魏王よりもタチが悪いかもしれないな)
孟軻はため息をついた。
太子・平は一部の燕の兵と共に公子・職と共に来た趙軍を迎え入れた。
「戦時中故、このような鎧姿で申し訳ない」
太子・平が頭を下げることに対し、趙の兵たちは気にしなくとも良いと言って、陣幕に案内する。
「失礼する」
彼が入ると趙の将兵と、
「兄上」
公子・職がいた。
「ご無事で何よりでございました」
彼は太子・平に近づき、手を取る。
「父上もお亡くなりになったと聞いております」
「ああ」
「しかし、もう心配はありません。ここには趙の方々がおります。この方々のお力を借りれば、斉を追い出すことができます。さあ兄上、共に参りましょう」
公子・職がそう笑った時、太子・平は悲しそうな表情を浮かべ、
「ごめん」
剣を抜くとそのまま公子・職の首を一閃した。
「えっ」
誰の声であっただろうか。公子・職の声かもしれない声の後、しばし静粛が生まれた。今、行った状況に趙の将兵たちは直ぐには理解できなかったのである。
先に動いたのは太子・平であった。彼は地面に転がる公子・職の首を手に取る。
「何をされているか」
趙の将兵たちがやっと剣を手に取ると太子・平は、
「己の王位欲しさに先王を殺し、斉軍を招き、多くの民衆を殺害した逆賊、太子・平はこの公子・職が斬った」
彼は公子・職の首を掲げながら趙の将兵に向かってそう言った。
趙の将兵に再び、訪れる混乱。
太子・平が公子・職を殺したにも関わらず、目の前の男は公子・職が太子・平を殺したと主張している。
趙の将兵たちはどうすれば良いのかわからなくなった。
その時、太子・平の後ろから現れる二人の影。
「やあ、流石は公子様」
「悪逆非道を成した太子・平を斬られるとは、よっ天下一」
蘇代と蘇厲は彼を称える。その姿に趙の将兵は唖然としながらもやっと剣を抜いた。すると二人は彼等の方を向いた。
「おやおや~剣をたくさんお持ちの皆さんがいるよ~」
「それほど剣を持ちながら公子を、いや太子を守れないなんてなんという様でしょう」
二人は趙の将兵の剣を前にしながらも彼等を嘲笑う。
「ここで~この方を殺して」
「そのまま退却されますかあ?」
「戦いもせずに?」
「趙と燕のつながりを作らずに?」
二人は声を合わせて言った。
「「どんなお顔で趙王に報告されるのおつもりでしょうなあ」」
趙の将兵たちは顔を見合わせる。確かにこの二人の言うとおり、ここで目の前の太子・平を殺すことは容易である。しかし、それではもはや趙軍がこの戦いに介入する大義名分を失うことになる。
そして、公子・職を目の前で殺されたことをどう報告するのか。
彼等は青ざめた。すると太子・平は微笑んだ。
「私は公子・職。燕と趙の素晴らしき友好を願い、悪逆非道の斉を共に討つ。何か問題があるでしょうか?」
彼の言葉に趙の将兵たちは顔色を変える。
「そうだ。そうだとも我らは燕との友好のために参ったのだ」
「共に悪逆非道なる斉を追い払いましょうぞ」
彼等は口々にそう言って。太子・平を、いや彼のことは公子・職と言うべきであろうか。ともかく彼等は彼を支持した。
「では、参るとしましょう」
彼はそう言って陣幕を出た。
「狡いな私は」
公子・職は馬に乗り、趙軍を率いながらそう言った。
「確かに狡くはあります。しかし。これでやりやすくはなったのではないでしょうか」
郭隗は彼の心情を思いながらそう言った。
公子・職が太子・平を殺した。これには三つの効果がある。
一つ、斉が名目上に掲げていた大義を消し去ることができること、これはもはや有名無実になっているため、そこまで影響を持たないが、それでも相手の目的を無くすということにおいて意味がある。
もう一つは今回の騒動を起こしたのは太子・平である。故に燕の民は彼から心が離れてしまっている。その騒動を起こした彼等からすれば悪人である太子・平を殺し、国を救うために他国からやって来た公子・職はまさに英雄の姿を国民は見ることになり、彼等は支持してくれるだろう。
実はそれだけを目的にすれば、自分を弟に殺させれば、同じ効果を得ることができる。
「ダメですよ。弟に自分を殺させればなんと思っては」
「そうです。これによって趙軍の弱みを握るということができなくなります」
蘇代と蘇厲はそう言った。
最後の一つ。趙の将兵の目の前で弟を殺したことで、彼等の大義名分を失わせ、失態の汚名を着ることになるのを、自分を生かすことで何とか保つことになった。
だが、これは趙軍の弱みを握ったことになる。故にこれを公開してやろうかと脅しをすることができるようになった。
(それによって斉のようなだまし討ちを封じることができる)
これが蘇代と蘇厲が狡いと称した策である。
「人の上に立つ者が果たすべきことはなんだろうか?」
公子・職は郭隗に訪ねた。
「死にゆく者たちに意味を与えることです」
「意味とは?」
「勇気、誇り、栄光」
郭隗は三つを上げた。
「そうか……」
ふと彼は道端に旅をする芸者が落としたのであろうか劇に使う仮面が道端に落ちていた。彼は馬を降り、その仮面の元に近づく。
手に取ってみると白色を基調として緑と赤が混じったような線が描かれている。
「我が国を建国した召公・奭は甘棠(小林檎かもしくはズミ)の木の下で公平な政治を行っている」
これはその甘棠の色だと思いながら彼は剣を抜いた。そして、なんとその剣を顔に近づけ、自らの顔の皮を剥いだ。
「なんということを」
郭隗は唖然とした表情で驚く。
「これでも私は剣の扱いだけは上手いのだ」
彼は顔からだらだらと血が流れるのを気にせず、手に取っていた仮面を取り付けた。
「どうだ似合っているか?」
周りは無言であった。相変わらず、仮面の下からは血が流れる。
「これで趙王に会うことになってもこの仮面で弟とはわからないだろう。斉もな」
公子・職は馬に跨った。
「国を取り戻す」
彼は馬を駆けさせた。その後は趙軍が追う。
(父上、あなたはお優しく争いごとを好まない方だった。それにも関わらず、争いごとを設けてしまい申し訳ありません。子之殿、あなたが国をより良くしようとしていることを知らないでいた無知をお許し下さい。弟よ。どうか許して欲しい。自分のためにお前を利用した。その代わり、お前の名で王になるから。そして、民たちよ。守るべきあなた方を守れなかったことをどうか許して欲しい)
自分のせいで犠牲になった者たちを思いながら彼は駆ける。
(許してもらえないことはわかっている。私の行ったことはそれだけの罪である。だから私はいつまでも謝り続けるだろう。決して忘れることなく、謝罪をしながら生きていく。それでもどうか。皆の死が意味の無いものにしないためにも、皆の死に意味を与えるためにも、天涯で胸を張れる国にするためにも、どうかどうか。もう一度、この旗を掲げされて欲しい)
「悪逆非道なる斉を討つ。正義は我にあり」
(この正義という旗を)




