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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第三章 合従連衡

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儒教の正道

 紀元前315年


 周の慎靚王が死に、子の赧王が立った。周王朝最後の王である。

 

 秦が韓を攻めて石章を取り、援軍としてやって来た趙の将・泥(または「荘泥」。「英」)を破り、義渠の二十五城を占領した。

 

 秦を恐れた韓は太子・蒼を質(人質)として秦に送った。







「よくぞいらっしゃっいました」


 田文でんぶんはにこやかにある一団を迎え入れた。


「久しいな田文。もう一人前の貴族であるな」


 そう言ったのは孟軻もうかである。彼は魏の襄王じょうおうの性質が先君である恵王けいおうよりも下と見ると魏を離れ、斉に来たのである。


「いえいえ、まだまだですよ」


 田文は謙遜の言葉を口にしつつ、この再会を喜んだ。


「どうぞごゆっくりしてください」


「ああ、それにしてもここは騒がしいな」


 孟軻は屋敷の外を眺めながらそう言った。田文の屋敷の外では食客たちが騒がしくしている。ある者は酒を飲み、ある者は武勇を磨く。またある者は勉学に励み、そんなことをせずにただただ寝ているだけの者もいる。


「申し訳ありません。もうちょっと静かにさせようと思っているのですが……」


「良い良い。明るくて良いではないか」


 二人はそう言って笑うと昔話で話しを弾ませる。


「そう言えば、先生は稷下の学士に招かれたと聞きましたが、そちらには行かなかったそうですね」


 田文はそう言った。稷下の学士は斉の宣王せんおうが学者を招き、できたものである。そこに孟軻は招かれたのだが、


「あの連中と同じにされてはたまらん」


 孟軻はそう言った。







 この孟軻という人物は弟子になる人物に関しては、身分関係なく受け入れ、去るとなれば止めないという風に一見、大らかで大度の人のように思えるが、彼自身は自尊心が強い人物である。


 彼は自分を国の、王の師であるという考え方を持っていた。そのため遊歴する際には、数十台の車と数百人の従者を従えて遊歴していた。


 こうやって聞くと、どんだけ自尊心が強いのかと思われるが、この人はそうあるべきだと本気で考え、そうあるために本気で国とはどうあるべきか。王とはどうあるべきか。そのために政治はどのように行っていくべきなのか。


 それらを孟軻は情熱を持って、取り組んだ。


 彼の登場前までの儒教は一つの停滞期を迎えていた。その停滞期の理由を述べるとすれば、乱世における様々な政治改革に彼等、儒教の考え方は受け入れづらかったというものがあるが、もう一つ理由があるとすれば、孟軻ほど情熱を持った人物がいなかったことも理由であろう。


 孔子こうしは偉大な教育者であったことは彼の能力を超えた多くの弟子たちを排出したことからもよくわかる。だが、一方で彼は偉大な教育者過ぎたとも言えるかもしれない。


 弟子たちは師を超えるほどの能力を有しておきながらも師を越えようとは、彼以上の存在になろうとしなかった。数少ない超えた者と言えば、顔回がんかい子路しろぐらいであろう。


 それほどの敬愛を抱かせてしまったのが孔子の教育の数少ない欠点と言えるかもしれない。


 こうやって考えると教育というものは難しいと言える。


 本来、教育を行う上で最大の理想は、師を弟子が超えていくというものである。一が二を産み、二が三を産み、三が四を産み、四が五を産む。この終わらぬ永遠の流れこそが最大の理想である。


 それが一時的に止まってしまっていたのが儒教であった。


 これは儒教だけでなく、他の思想においても同じことが言える。この止まってしまったものを動き出させることがその思想が生き残れるかどうかの分け目となる。


 また、こういった思想の停滞というものの原因は安定というものもあるのだが、この安定という部分では儒教で幸運であったのは他の思想の台頭による危機感が儒教の改革の必要性、孟軻の登場のきっかけとなったのである。


 そんな孟軻だが、実は戦国時代の後、唐の時代まで彼の評価は低かった。孔子に次ぐ「亜聖」とまで言われた人物がである。


 理由の一つとしては、前漢王朝が儒教を国教としたのだが、国教とした時だからと言って武帝ぶていの頃は儒教一色になったわけではない。やがて一旦、滅んで後漢王朝へと移行してしばらくすると儒教のあり方というものが間違った方向に行っているという考え方が出てきた。


 そのため本来の儒教のあり方とは何かというものを主張するものたちが表れ、やがて王充、王符、仲長統、馬融、鄭玄と言った人物たちが儒教について論じた。そんな中でも彼等は論語など主要な経本を元にしており、孟軻の主張はそこまで出されなかった。


 そして、三国時代における更なる儒教改革とつながっていくわけだが、異民族侵入による五胡十六国南北時代という長きに渡る戦乱の世が続いたことにより、儒教は長らく停滞することとなった。


 そんな中、長い乱世が終わり、唐の時代となり、中期あたりになって韓愈かんゆらによる古文復興運動によって孟軻は再評価されるようになった。


 彼が評価されるまで時間が掛かったのは、彼が孔子の考えや言葉に対して、間違っているところは間違っていると指摘を行っており、自尊心の強さ、口調的な攻撃性が儒教の正道を取り戻そうとした後漢時代の儒者らに受け入れられなかったためであろう。


 そんな彼の良いところはその自尊心を他者に強制しないということであろう。そのため彼は教育者と言うよりは、修行僧の類の方が近い。









「先生は長く魏にいたそうですが、それは何故ですか?」


 孟軻に田文は聞いた。


「魏の先君は弱い方だった。国君とは思えぬほどにな」


 彼は言う。


「だからこそ助けを求める声がしたのだ。私は助けを求める声があれば、私は行く。それだけだ」


「そうですか」


「田文、お前はお前なりに弱き者を救おうとしたのだろう」


 孟軻は外の食客たちを見る。


「ありがたいお言葉です」


「ただ、忠告はしよう」


「はい」


 田文は容儀を正した。


「君臣関係などには気をつけなければならないぞ」


「ご助言感謝します」


 田文が拝礼するのを見ながら孟軻は首を軽く振る。


「まあ、良い。取り敢えずは再会を祝すとしよう」


「はい」


 二人は笑った。


 この翌年、二人にとって憤りを覚える戦が始まろうとしていた。





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