表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢幻の果て  作者: 大田牛二
第三章 合従連衡
54/186

秦の蜀攻略戦

 巴と蜀は互いに攻撃しあい、それぞれが秦に訴えた。

 

 秦の恵文王けいぶんおうは以前から蜀を討伐しようと考えていたが、道が険阻なうえ、韓の襲撃を恐れたためなかなか決断できないでいた。


 韓は楚と繋がっており、韓を通じて楚が蜀を攻めている間に侵攻するようなことがあれば、蜀攻略どころでなくなる。

 

 そんな中、司馬錯しばさくが蜀討伐を主張した。一方、それに対して、張儀ちょうぎが反対した。


「先に韓を討つべきでございます」

 

 恵文王が詳しく聞くと、張儀はこう言った。


「秦はまず魏・楚と親善し、兵を三川(伊水、洛水、河水)から下し、新城、宜陽を取って東西二周の郊に臨み、九鼎(夏・商・周の三代に伝わる鼎。天子の象徴)と図籍(天下の版図)を手中に置き、天子を制して天下に号令なさるべきです。そうすれば天下で秦に逆らう者はいなくなりましょう。これこそが王者の業と言うべきものでございます。名を争う者は朝(朝廷。天子がいる場所)に行き、利を争う者は市に行くと申します。三川と周室は天下の朝市です。王は朝市を争わず、戎翟の争いに介入しようとされておられますが、これでは王業が遠のくことになりましょう」


 彼の意見は韓を取り、周を手中に収めてしまえというものである。ついに諸侯の中で周を滅ぼしても良いという考えが出ていることがわかる。

 

 一方、司馬錯が反論した。


「それは違います。富国を欲する者はその地を拡大することに務め、強兵を欲する者はその民を富ませることに務め、王を欲する者はその徳を拡めることに務めるものです。この三者を備えることができれば王業を成すことができるのです。今、王は地が狭く民も少ないため、まずは容易な事から始めるべきです。蜀は西僻の国ではございますが、戎翟の長でございます。しかしその政治は桀・紂のように乱れており、秦が蜀を攻めるのは、豺狼が羊の群れを逐うようなもの、その地を得て国を広くし、その財を得て民を富ませ、多くの兵を損なうことなく戎翟を服すことができるのです。一国を占領したとしても天下が秦の暴を責めることなく、四海(天下。または「西海」の誤りで西方の意味)の利を取り尽くしても天下がそれを貪と見なすことはございません。我が国は一挙によって名と実を得て、しかも暴を禁じて乱を収めたという名声を得ることができます。もし先に韓を攻め、天子を手中に収めて、得られるのは悪名であり、利があるとは限りません。不義の名をこうむったうえに天下が望んでいない場所を攻めれば、危(危難。危険)を招きます」


 彼は更に続けた。


「私が周を攻撃してはならない理由を述べましょう。周は天下の宗室であり、斉と韓は周の與国(近隣親睦の国)でございます。周が九鼎を失い、韓が三川を失えば、二国(周・韓)は力を合わせて共謀し、斉・趙に協力を求め、楚・魏とも旧怨を解いて和解し、あるいは鼎を楚に譲り、あるいは地を魏に割いて秦に対抗するでしょう。王にはそれを止めることができません。これが私が言う危機です。先に蜀を討つことこそ上策なのです」


 恵文王はこの司馬錯の計に従うことにした。


 さて、ここで問題なのは堅牢な山に囲まれた蜀をどのように攻略するかであるが、それを司馬錯、張儀および都尉・ぼく等は石牛道を使うことにした。


 石牛道とは秦が蜀をからかくために作った石牛を運ぶために造った道のことである。この道は軍隊が通るには狭い道なのだが、これを彼等は蜀に対して、救援に赴くと称して、ゆっくりとはいえ、軍を侵入させた。


「ここからは速さの勝負となる。前進」


 司馬錯は兵を率いて、蜀を攻撃した。奇襲の形となった蜀の重要な地域は瞬く間に占領されていった。


 要所を抑えた司馬錯はここで速さを捨てた。


「ここからはじっくりと平定する」


 十月、蜀が平定された。その後、司馬錯は続けて苴(葭萌)と巴も占領したこうして、秦は堅牢な巴蜀の地域を得ることとなった。


 ここからますます秦の強大さが増すのである。










 兄・蘇秦そしんが死んだ後も弟の蘇代そだい蘇厲それいは諸侯の間を遊説していた。


 そんな彼等は今、燕にいた。


 実は燕の宰相・子之は、彼等とは婚姻関係を結んでいた。


「叔父上、何の用ですかあ」


「お前たちに斉への使者として行ってもらいたい」


 二人は嫌な顔をしつつも叔父の願いということで、受け入れた。


「そしてだな。斉に行った後、こうしてもらいたい」


 子之の願いを聞いた後、蘇代と蘇厲は使者として斉に行った。


 二人が燕に帰国すると燕王・噲に謁見した。燕王・噲が彼等に問うた。


「斉王は覇者になることができるだろうか?」

 

 蘇代が、


「無理です」


 と答えると燕王・噲がその理由を聞くと蘇厲はこう答えた。


「斉王は臣下を信用しようとしていないからです」

 

 単純な性格の燕王・噲は子之を信任するようになった。


 更に子之の親派である鹿毛寿(または「唐毛寿」「潘寿」「厝毛」)が進言した。


「人々は堯を賢者だと称えておりますが、それは天下を譲ることができたからです。王が国を子之様に譲れば、王は堯と名(名声)を同じくすることができましょう」


 元々老齢な燕王・噲で特に優れたところがないと自分で思っているため、彼の進言を受けて子之に南面(国君は南を向いて座る)させて王事を行うようにさせ、燕王・噲は自ら政治を行うことはなく、臣下として子之の決断に従うようになった。


「こんなことがあってはならない」


 そう言ったのは燕の太子・へいである。


 彼は正義感の強い男であり、子之が王気取りで政治を行うことに不満を覚えた。そもそも王となるのは正当な血のものでなければならない。


 それが正義であると彼は信じていた。


「我が国の正義を取り戻さなければならない」


 太子・平は怒りに燃えた。


 彼は平凡な太子に過ぎなかった。少しだけ正義感の強い平凡な太子。普通に国を継げば、特に目立った功績も立てることなく、その生涯を終えたことだろう。


 そんな彼が人の悪意を、怒りを、憎しみを、汚さを知るまであと少し……




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ