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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第三章 合従連衡

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蜀という国

 紀元前316年

 

 この頃、巴と蜀が争っていた。

 

 蜀という国ができたのは人皇(伝説の帝王)の時代と言われている。

 

 黄帝こうていの時代になると、黄帝の子・昌意が蜀山氏の娘を娶って高阳が生まれた。これを五帝の一人である顓頊という。顓頊は支庶(嫡長子以外の子)を蜀に封じ、代々侯伯とした。

 

 蜀は夏・商・周の三代を経て存続し、周の武王ぶおうによる商の紂王ちゅうおうの討伐にも協力した。

 

 蜀の地は、東は巴、南は越(越嶲。南中とよばれる地域で、呉越の越とは無関係)に接し、北は秦と地を分け、西は峨嶓(山名)を覆っており、天府の地(土地が肥えて物資が豊富な土地)と称され、かつては「華陽」ともよばれていた。

 

「華陽」とは華山の南という意味である。

 

 周代の蜀は秦と巴に囲まれた夷狄の地であることから周王を奉じていたものの春秋の盟会(諸侯の会)に参加することはできず、中原とは書軌(文字や馬車の車輪の幅。文化風俗)も異なった。

 

 周が衰退して秩序を失うと、蜀侯・蠶叢が王を名乗った。この蠶叢という男は目が「縦」だったと言われ、後世の歴史家はどういう意味なのかと大いに悩んだのだが、三星堆遺跡が見つかり、そこから目が飛び出した仮面が発見されたことにより、目が縦というのは目が飛び出していることを意味するという仮設が生まれた。

 

 蠶叢は死んでから石棺・石椁(棺は内棺。椁は外棺)に埋葬された。蜀の国民は蠶叢に帰心していたため、石棺・石椁を見ると、


「縦目人の冢」


 と称するようになったという。

 

 蠶叢の次に王になったのは柏灌といい、次の王は魚鳧という。魚鳧は湔山で狩りをした時に仙道を得たと言われ、蜀の人々は魚鳧を想って祠を建てたという。

 

 後に杜宇という王が現れて民に農業を教えた。杜宇の号は杜主とも呼ばれる。

 

 当時、朱提(地名)に梁氏が住んでおり、娘の利(人名)が江源で遊んでいた。杜宇は梁氏の娘を気に入って妃にした。

 

 その後、郫邑に遷って治所とし、その後、瞿上を治所とした。

 

 中原の七国が王を称すと杜宇は帝を称し、望帝と号して蒲卑に改名した。帝を称したのは自分の功徳が諸王より優れていることを示すためである。

 

 しかし即位後に水害があり、杜宇の相・開明が玉塁山を切り開いて治水に成功した。

 

 そこで望帝は開明に政事を委ね、堯・舜の禅譲の義に倣って開明に帝位を譲った。望帝は西山に登って隠居することになった。

 

 この時はちょうど二月で、子鵑ほととぎすが鳴いていた。蜀人は子鵑の鳴き声を聞くと望帝を想って悲しんだという。

 

 巴も蜀の教化を受けて農業に励んだ。遥か後世である晋代においても巴と蜀の民は農事を始める時、まず杜主君(杜宇)を祀ってから行うという。

 

 望帝に代わって即位した開明は叢帝と号した。歴史上、開明が建てた国を開明王朝と呼ばれる。

 

 叢帝の後は盧帝といい、盧帝は秦を攻めて雍まで攻め込んだことがあった。


 その後は保子帝が跡を継ぎ、彼は青衣を攻めて獠僰に勢力を拡げた。

 

 叢帝から数えて九世目に開明帝の時代となった。始祖の開明とは異なる人物である。開明帝は帝号を廃して王を称した。

 

 因みに開明王朝の統治者は全員は開明を名乗ったと言われている。

 

 九世(または五世)開明(開明王。名は尚)は初めて宗廟を建てた。中原の文化を取り入れたことがこのことからわかる。

 

 当時、蜀には五丁力士(五人の力士)がおり、山を動かしたり万鈞(鈞は重さの単位)を持ち上げることができた。

 

 開明王朝では王が死ぬ度に、力士が長さ三丈、重さ千鈞もある大石を立てて墓志(墓標)にした。蜀には諡号の風習がなかったため、五色を主(神霊の名)とし、廟内に青帝、赤帝、黒帝、黄帝、白帝の神主(位牌)を置いた。

 

 開明王は城郭を遷す夢を見たため、成都に遷って国都にした。

 

 さて、それから時が経ち、褒と漢の地を擁している蜀王はある時、谷で狩りをしていた時に秦の恵文王けいぶんおうに遭遇した。


 恵文王は一笥(竹籠)の金(黄金)を蜀王に贈った。蜀王は答礼として珍玩の物を恵王に贈ったが、それらは土になってしまった。

 

 このことに恵文王が激怒すると群臣たちが祝賀した。


「これは天が我が国に授けたのです。王は蜀の土地を得ることができましょう」

 

 喜んだ恵文王は五頭の石牛を造り、その後ろに金を置いて、


「牛が金の糞をした」


 という噂を流した。また、同時に百人の士卒を養うようになった。

 

 しばらくして蜀王は黄金の糞をする石牛の噂を聞いて秦に求めた。恵文王は蜀に譲ることに同意した。蜀王は五丁力士を派遣して石牛を迎え入れに行かせたが、石牛は金の糞を出すことはなかった。

 

 蜀王は怒って石牛を秦に返し、秦人を嘲笑して、


「東方の牧犢児」


 と罵った。文明が遅れた牧牛の民という意味である。

 

 それを聞いた秦人は笑ってこう言った。


「我々は確かに牧犢だが、蜀を得ることになるだろう」

 

 その頃、武都で一人の丈夫(男)が女子に変わったという奇妙なことが起きた。この女性はとても艶美で、山の精と言われた。

 

 蜀王はこの美女を後宮に入れて妃にしたが、女は水土が合わないため去ろうとした。王は女を引き留め、『東平之歌』を作って女を歓ばせた。

 

 しかし女は暫くして死んだ。

 

 深く悲しんだ蜀王は五丁力士を武都に派遣し、土を積んで妃の冢(塚)を造った。その地は数畆に及び、高さは七丈もあり、その上には石鏡が置かれた。

 

 そんな話しを聞いた恵文王は数回にわたって美女を蜀王に贈ったため、感謝した蜀王は使者を送って秦を朝見した。

 

 恵文王は彼の好色を知り、五女(五人の女。恐らく秦王の娘か宗族)を蜀に嫁がせることにした。蜀は五丁力士を送って五女を迎え入れにいった。

 

 一行が梓潼に来た時、一匹の大蛇が穴に入るのを見た。一人の力士が蛇の尾をつかんで引きずり出そうとしたが、力が足らず、そこで五人が協力して大声を挙げながら蛇を引っ張った。


 すると山が崩れて五人の力士と秦の五女を押しつぶしてしまった。崩れた山は五つの嶺に分かれ、山頂には平石が現れた。

 

 悲痛した蜀王は山に登って、「五婦冢山」と命名し、平石の上に「望婦堠(堠は土を積んで作った土台)」を築いて「思妻台」を建てた。

 

 蜀王は弟・葭萌を漢中に封じていた。これを苴侯といい、その邑は葭萌と命名されていた。

 

 苴侯は巴王と関係を結んでいたのだが、巴と蜀と対立するようになり、蜀王は怒って巴と関係が深い苴侯を攻撃した。


 苴侯は巴に出奔し、巴と苴侯は秦に援けを求めた。


 この救援を求めた結果、秦の侵略のきっかけを作ってしまったのであった。

 

 


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