幻影
大変遅れてしまいました。
田文が元盗賊団だったものを大勢連れてきて、挙句の果てに食客にしたため、田嬰の家臣は慌て、中には泡を吹くものさえいた。
やめさせるべきだという意見が家臣たちから出るものの、田嬰はこれを咎めず、田文の好きなようにさせた。
このようにして田文は各国の遊士や罪を犯して逃亡している者を集め、彼等に住む場所を与えて厚遇した。
最初はどうせ、貴族の遊びに過ぎないと思っていた者たちも食客として過ごす内に彼に心服するようになった。
食客たちを大いに尊重してくれるというだけでも皆喜んだが、何よりも嬉しかったのは田文が自分たちの家族親戚たちまで招いてくれたことである。
世の中に顔向けできない生き方をしているという後ろめたさを持っている者たちの中には家族や妻子と別れて暮らしている者が多かった。そんな彼等に田文は共に生きても良いと自分のとこで暮らしても良いと言ってくれるのである。
やがてそのことを聞き、彼を慕う者たちが各地から集まっていき、食客の数は数千にまで達した。大きな屋敷を中心に突然、村ができたと思えば、想像しやすいだろうか。
こうして田文の名は天下に轟き、人々から尊重されるようになった。
さて、この田文の罪人までも食客として養っていることに対して、批判している人物が後世にいる。『資治通鑑』の編者・司馬光である。彼の意見は以下のとおりである。
「孟嘗君は士を養う上で、智者も愚者も関係なく、善悪を分けることも無く、国君の禄を浪費し、私党を組み、実を伴わない名声を大きくし、上は国君を欺き、下は国民の財を奪っている。これは奸人の雄と言うべきである」
食客は国からすれば、奴隷でなければ、労働者でもない。税金を治める存在でもない。国に直接、利益をもたらすことも少ない。
そんな彼等を、しかも善悪の区別さえも付けずに集め、自分の領地の民から得たであろう税金を彼等のために使うことはよくないとしたのである。
また、その行為は私党を組んでいると批難したのは儒教的であろう。儒教の考え方では、私党を組むべきではないというものがある。
さて、後世でそんあ批難を受けていることは露知らず、田文は田嬰に招かれた。
「文よ。お前に楚に行く使者となってもらいたい」
「私がですか?」
「そうだ」
田嬰は各国の情勢を見ながら、楚との関係を重視し、二カ国の力を持って秦や他国と対抗するべきと考えていた。
また、どうにも楚には不穏な空気がある。
そのため楚への使者として身内が行ってもらい、判断していきたいと考えていた。
「わかりました行ってまいります」
田文は田嬰の指示を受け、多数の食客と共に楚へ向かった。
楚の懐王は斉の使者として来た田文に会うと彼に象牀(象牙の寝床)を贈った。
「楚王は好意を持ってくれた」
そう思った田文は登徒直(登徒が氏)に命じて象牀を斉に運ばせようとした。
しかし登徒直は命令に従わなく、彼は田文の門人・公孫戌にこう言った。
「象牀は千金の価値がありますので、毫髪ほどの傷をつけただけでも、妻子を売ってすら償うことができなくなってしまうものです。あなたの力で私)象牀を運ばなくてもすむようにできないでしょうか。できれば、先人の宝剣を差し上げましょう」
公孫戌は同意し、田文に会ってこう言った。
「小国がこぞって相の印をあなた様に送るのは、あなた様が貧窮を振興し、存亡した家系を存続させ、あなたの義を喜び、あなたの廉を慕っているためです。しかし今、初めて楚に来たにも関わらず、早速、象牀を受け取れば、今後訪問する国はどうやってあなたに対応すればいいのでしょうか?」
高価なものを受け取るという行為を受け入れば、渡すものの高価さの競争が始まってしまう。また、これを一種の賄賂と考え、田文の評判が落ちる可能性もある。
田文は、
「そのとおりだ」
と言って象牀を辞退することにした。
田文の言葉を聞き、退出しようとする公孫戌が小走りで田文の前から去ろうとした。
貴人の前で小走りになるのは当時の礼であるため、可笑しなところはあまりないのだが、彼が中閨(宮中の小門)に至る前に田文は彼を呼び戻してこう問うた。
「あなたはなぜ足が高く、志が揚がっているのでしょうか(気持ちが高揚しているのか)?」
公孫戌は宝剣の事を正直に話した。
すると田文は門版にこう書いた。
「私の名声を上げて私の過ちを止めることができる者は、秘密裏に外の者から宝物を得ようとしても、速やかに訪れて諫言してもらいたい」
この話しに関して、田文に対して批判的であった『資治通鑑』の編者・司馬光はこう述べている。
「孟嘗君は諫言を用いることができた」
よく言えば、正義感が強く、悪く言えば潔癖症な彼が一回、批判したものに高評価も同時に述べるところに彼の田文を正しく評価しようという姿勢を感じることができる。
田文は楚に来てから招かれた屋敷の中で、食客たちを集めた。
「父上は楚に不穏な動きがあると言っていた。その不穏な動きというものを教えてくださる方はいらっしゃるでしょうか?」
すると鶏鳴と狗盗が答えた。二人は田文の食客になると諜報部門のところで活躍している。
「今、楚には公孫衍がいるそうです」
「彼は合従軍を結成するため、楚を盟主としたいようです」
田文は頷き言った。
「つまり、楚は合従に参加しようとしているわけか。斉からすると中々に難しい」
楚が合従に加わるということは斉とのつながりを切るということであり、斉からすると秦、宋しか関係を持っている国はない。
「それ以上に秦も厳しくはあります」
「その通りです。楚が合従に入り、諸侯による合従軍が結成されれば、秦といえども勝つのは難しいのではありませんか?」
鶏鳴と狗盗はそう言った。
「確かに、その通りだ。兵の数も違うであろうしな」
田文が同意を示す中、食客の一人である郭隗が言った。
「しかし、秦の宰相・張儀の奇妙な行動の意味がわかっていません。何か秦には合従軍が結成されても勝てる策を講じているのでは?」
この意見を受け、田文は考え込む。
(確かに張儀という人の動きは妙だ。しかし、魏の宰相に一回なることにどんな策につながるんだろう)
田文はふと、荘周に会った時にもらった石を見た。
(表か裏か。善か悪か。そんな二択で物事は成り立っているのではない)
荘周の言葉を思い出し、呟いた。
「そうか私たちが必死に探ろうとしている張儀は幻影なんだ」
田文はそう呟くと目を見開き、立ち上がった。
「意味はなくてもあるんだ」
張儀という人の恐ろしさが田文にはわかった。彼はただ秦と魏を行き来しただけでここまでの幻影を作り上げたのだ。
「楚王に会わねば、合従を持って秦を破るのは難しい。そのことを理解してもらえなければ」
田文は部屋を出て、懐王への謁見を求めようとした。
一方、その頃、歓喜の表情で懐王の前で拝礼する男がいた。公孫衍である。
何故、歓喜の表情を浮かべているかと言えば、それは楚が合従の盟主となることに同意したのである。
(あとは各国の調整を行い、合従軍を結成して秦に攻め込むだけだ)
彼は雄大な計画を持って、秦を叩くその瞬間に今、近づいたことに彼はこの時点で確信したのである。
(見ておれ、張儀。貴様の首、斬ってみせるわ)
憎き、張儀を見据え、彼はそう心の中で叫んだ。
 




