平糴法
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紀元前412年
魏の文公が公子・撃(文公の子)に繁龐を包囲させ、その地の民を駆逐して土地を奪った。
これは魏で行われている改革の一環の一つであった。
魏では、李悝による改革が勧められていたのである。
周王室が衰退して戦国時代になると、詐力(詐術や武力)が尊重されて仁誼(仁義)が軽視され、富有が優先されて礼讓は後回しにされるようになった。
そのような状況下で、李悝は文公に「地力を尽くす教え」を作り、改革案として提出した。
李悝の考えは以下の通りである。
「百平方里の土地があれば提封(国土。領地)は九万頃となります。そのうち、山沢や邑居(人が住む場所)が三分の一を占めたとしても、六百万畝の田が残ることになります。農耕に励み、勤勉に働けば一畝の生産量は三升(三斗)に増えますが、勤勉に働かなければ三升減ります。よって百平方里における収穫の増減は粟(穀物)百八十万石に及ぶことになるのです」
「また、もしも糴(穀物)が高すぎれば民(士工商)を苦しめ、安すぎれば農(農民)を苦しめることになってしまいます。民が苦しめば離散するようになり、農が苦しめば国が貧しくなっていきます。高すぎても安すぎてもどちらかを苦しめることになるのです。国を善く治める者は、民を苦しめず、しかも農に勤労を勧められる者のことを言うのです」
「今、一夫(一人の成人男性)が五人で生活し、百畝の地を管理しているとしましょう。一畝あたりの歳收(一年の収穫)が一石半ならば、百畝で粟(食糧)百五十石になります。十一の税(十分の一の税)である十五石を除けば、百三十五石が余ることになります。一人が毎月一石半を食べるとすれば、五人が一年で必要とする量は粟九十石ですので、四十五石が残ります。石三十が銭千三百五十に換算されるとして、社閭(地域)で行う嘗新・春秋の祠(祭祀)で銭三百が必要ですので、千五十しか残りません。衣服のために一人あたり銭三百が必要になるとすれば、五人で年間千五百を費やしますので、銭四百五十(穀物十石分)が不足することになります。不幸にも疾病や死喪に遭った時の費用や賦斂(賦税)の額は含んでおりません。これが農夫が常に困窮し、農耕に励む心を失わせている原因であり、その結果、糴の値をつりあげることになっているのです」
「糴の値を安定させることができる者というのは、一年の上中下孰(三段階の収穫の様子)をよく観察しているものでございます。上孰の時は収穫が通常の四倍(通常は百五十石。四倍は六百石)となりますので、二百石を使ったとしても四百石が残ることになります。中孰なら収穫が三倍(四百五十石)になり、百五十石を使ったとしても三百石が残ります。下孰ならば、二倍ですので二百石を使っても百石が残ります。逆に小飢なら収穫は百石(通常の三分の二)に、中飢なら七十石(通常の約半分)に、大飢なら三十石(通常の五分の一)になるのです」
「そこで、大孰によって残った糴の三を納めさせて一を留めます(四百石のうち三百石を国に納めさせ、百石は農民のものとします)。中孰ならば二を納めさせて一を留めます(国に納めるのは二百石)。下孰ならば半分(五十石)を納めさせます。こうすることで民を満足させ、価格を安定させることができるのです。小飢になれば、小孰で集めた糴を出し、中飢ならば中孰で集めた糴を出し、大飢ならば大孰で集めた糴を出します。こうすることで、飢饉や水害、旱害に遭ったとしても糴の値が高くならず、民が離散することもございません。余りを取って不足を補うのです」
彼のこの改革の内容はつまり、政府が余剰食糧を蓄えることで、収穫の多寡にかかわらず市場を安定させるというものである。
この方法を「平糴法」という。文公は李悝の進言を実行した。
平糴法の実施によって、貧困に苦しむ農民の生活が向上し、生産量も増加した。また、李悝はこの改革を行う上で、多くの人材を文公に推薦した。
これによって推薦されていった者は西門豹や田文などがいた。
結果、魏は戦国時代に入ってから最も大きな発展を遂げることになった。
魏の発展は他国の邪魔があまり入らなかったことも大きかっただろう。丁度、魏が国力を高めている間、趙では献公が亡くなり、烈公が立ち、韓では韓啓章が亡くなり、韓の景公が立った。斉では斉の政治を支配している田一族の当主が田和に代替わりしていた。
このように他国の代替わりにも魏は助けられたのである。
もう一つ国政の改革を行う上で邪魔されなかった要因として文公の外交力もあった。
当時、韓と趙が対立していた。そんな中、韓が趙を攻めるために魏に兵を借りようとした。しかし文公は、
「私と趙は兄弟である。命に従うわけにはいかない」
と言って断った。
やがて趙も韓を攻めようとしたため、魏に兵を借りようとした。しかし文公は韓に対する回答と同じ内容を趙に伝えた。
二国はどちらも魏を怨んだが、後に二国は彼が自国との関係を重視し、和を保とうとしていると知った。
結果、二国はそれぞれ魏との好みを通じた。このように余計な兵を使うこともなかったために魏は自国の改革に集中できたのである。