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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第三章 合従連衡

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再会

蛇足の方に小話・裏話を投稿しました。読んでみたい方は読んで頂ければと思います。

 四月、秦の恵文王けいぶんおうは王を称した。


 このことに難癖をつける国はなかった。秦を恐れたがためである。


 この年、衛の平公が死に、子の嗣君が立った。この頃、衛の胥靡(軽刑を受けた囚人)が魏に逃亡するということがあった。

 

 この胥靡は魏の王后の病を治したため、魏に匿われた。

 

 それを聞いた嗣君は魏に人を送って五十金で胥靡を引き渡すように請うたが、使者が五回も往復したにも関わらず、魏はことごとく要求を拒否した。

 

 そこで嗣君は左氏(地名)を魏に譲って交換することにした。左右の近臣が諫めて言った。


「一都(一つの大邑)で一胥靡を買うのはふさわしくありません」

 

 嗣君は首を振った。


「汝らにわかることではない。治に小はなく、乱に大はないものである」


 政治を行うには小事も軽視してはならず、乱が起きる時は大事から始まるとは限らないという意味である。


「法が立たず、誅が行われなければ、十の左氏があっても無益である。逆に法が立ち、誅が必ず行われるのなら、十の左氏を失っても害はない」

 

 魏の恵王はこれを聞いて、


「人主の欲(望み)を聴かないのは不祥である」


 と言い、胥靡を車に乗せて衛に送り返した。










 田文でんぶんは緊張していた。


 ついに父であるという田嬰でんえいに会うことになったからである。


 何故、ここまで引き伸ばされていったのかと言えば、田嬰が宰相としてあまりにも忙しかったからである。


 彼は国君である斉の宣王せんおうとあまり反りが合わないようで、意見が噛み合わない状況が続き、外交方針や戦略など様々な面での処理に手間取っていたのである。


 また、孫臏そんぴんの死に対して、田文がしばらく喪に服していたというのもある。


 田文と田嬰が会う機会が調整できないままずるずるとここまで来たのであった。


 因みにここに田忌でんき淳于髡じゅうこんがいる。


 そして、田文の前に田嬰が現れた。


(この人が父……)


 複雑な感情が入り混じりながら、頭を下げる。


「お前が田文か?」


 田嬰の声が聞こえる。


「はい」


「そうか……」


 田嬰は田文の前に座った。しばし、静粛が生まれる。それを破ったのは田忌である。


「田文を捨てたと聞いたが、お前三十人から四十人ぐらい息子がいるだろう。何故、田文だけを捨てたのだ?」


「五月五日に生まれたからだ」


 田文は首をかしげた。何故、その日に生まれれば捨てられなければならないのか?


「それは迷信の類ではないか」


 田忌がそう言うとわからない田文に淳于髡が説明した。


「この辺では、五月五日に生まれた者は門戸の高さにまで成長すると親を殺すという迷信があるのだ」


 彼の言葉に田嬰は頷く。


「嬰よ。そんなものを信じていたのか」


「迷信かはともかく、余計な混乱が起きるよりは良いと思いましてな」


 田嬰はそう田忌に言った。


(そんな迷信で捨てられたのか)


 彼は抑えられない感情が湧き立つことを思いながら、


「門戸の高さを上げれば良いだけのこと、そんな迷信を信じられるとは田嬰様は迷信深いですなあ」


 と、皮肉を交えながら言った。


 それに田嬰はふっと笑う。


「孫臏殿が優秀と言っていたが、確かに機転が利くようだ」


 自分に会おうと思ったのは自分が優秀だと聞いたから、自分を捨てたくせに優秀と聞けば、会う。なんと自分勝手な人であろうか。


「文よ。お前はこの先、何かしたいことはあるか」


 ふと、田嬰はそのようなことを聞いてきた。


「特には……」


「そうか……」


 田嬰は立ち上がった。


「今後は私の屋敷に住むが良い。部屋は開けてある」


 そう言って立ち去ろうとする田嬰に向かって田文は大きな声で言った。


「お断りします。部屋などいりません」


 田文は怒りながらそう言うと立ち上がった。


「まて、田文。どこへ行く」


「今までお世話になりました田忌殿。私は斉を去ろうと思います」


 そのまま彼は部屋を出ていってしまった。その後ろ姿を田嬰はただただ見つめるだけであった。


「嬰よ。あまりにも田文に冷たいのではないか」


「冷たいでしょうか?」


 田嬰としては当たり前の対応をしただけに過ぎない。


「お前というやつは……」


 田忌と淳于髡は呆れながらそう言う。


「では、田忌殿。田文が国を出る前にこれを渡していただけないか」


 田嬰は臣下に持ってこさせたものを田忌に見せた。


「金と玉か。これを渡せというのか」


「ええ、旅に出たいというのならば、旅費が必要でしょう。この他にも文の部屋に用意していたのだが……」


 田嬰は臣下にこれを持ってこさせるために立ち上がったのであり、部屋を立ち去ろうとしたわけではなかった。


「お前が渡せば、良かろう」


「あの様子では受け取らないでしょう」


 田嬰は首を振る。


「文との母との約束を果たしたいだけですからな」


「約束とは?」


 田忌がそう聞くと田嬰は話し始めた。













 田文の母が病に倒れ、世を去ったのは田文が斉に来る数年前である。


 田嬰が彼女を見舞いに彼女の部屋を訪ねた時、田文の母は田嬰に言った。


「旦那様。私は旦那様に話していないことがあります。聞いてもらえるでしょうか?」


「なんだ?」


「あの日、文を捨てた日のことです。私は旦那様に言われ、あの子を……森の近くに捨てました」


 彼女は五月五日の日に生まれた田文を捨てろと言われた時、必死に懇願したが、それでも聞き入れられず、なんなら自分で捨てるということで自分自身で田文を森に置き去りにした。


「それでも私は途中であの子の元に戻ったのです。その時、私は髪の長い方に会ったのです」









 雨の振る中、田文の母は田文を探していた。


「確かにあそこに置いたはず、まさか虎にもう……」


 しかし、田文の置いた場所には血痕の類などはなかった。ならば、どうしていないのか。


「文……」


 馬鹿なことをした。田文を隠しながら育てるだけの覚悟が自分にはなかった。それだけのことで息子を捨ててしまった。


「哀れなことだ」


 その時、後ろから声が聞こえた。彼女が振り向くと雨の中、髪の長い男が立っていた。


「赤子を捨てておいて、今更になって後悔をする。人としてなんと哀れなことか」


「あなた様はここにいた文のことを知っているのですか」


 男は笑う。


「知っていればどうだというのか」


 彼女は言った。


「教えてください。どうか。どうか」


「教える必要がどこにある。お前は赤子を捨てたのだぞ」


「それでも……どうか。どうか」


 男は鼻で笑う。


「ふん、なんという偽善か。仕方ない教えてやる。あの赤子は私が拾い、ある者に預けた」


「そうだったのですね。なんと感謝申し上げればよろしいのでしょうか。できれば、その方がどこにおられるか教えていただけないでしょうか?」


 彼女の申し入れに男は吐き捨てるように言った。


「断る。何故、私がお前にそこまでしなければならんのか」


 男は背を向け、立ち去ろうとする。


「お待ちください。どうか。どうか教えてください。あの子のいる場所を」


「断る。だが、一つだけ教えてやろう。赤子を預けた男は、少なくとも無下に扱うような男ではない。学問も教えることもできる男だ。よほど出来が悪くなければ、また捨てられることはないだろう」


 男は顔を彼女の方に向け、言った。


「お前ができるのは、そのようなことがないように天に願い続けるだけだ。そうやって罪を抱えながらお前の終幕まで生きるといい」


 男はそのままどこかへと消えていった。


 田文の母は一人、手で顔を覆い、泣くだけであった。










「旦那様。私は今でも愚かだったと思っております。その方の言うとおり、私は……祈ることしかできませんでした」


 息が荒くなっていく彼女を見ながら田嬰は目を細める。


「それでも私は文が生きてさえいてくれれば、良いのです。ただ、旦那様一つお願いがあります」


「なんだ?」


「もし、文が生きており、会うことができれば、あの子を殺すような真似はしないでください。お願いします。どうか。どうかお願いします」


 彼女は涙を流しながら懇願する。田嬰は彼女の手を取る。


「わかった。そのようなことはせん。もし、文が生きていれば、どのような道を歩もうとも援助することを約束しよう」


「有難いお言葉でございます……本当に……ありがとうございます……」


 彼女の手が田嬰の手をするりと抜け、彼女の目からは光が失われた。









 田文は荷物をまとめ、田忌の屋敷から出ていき、斉から去ろうとした。


「どこに行こうか」


 今、魏が秦に何度も攻められており、安定していないが、そこにはかつての師でもある孟軻もうかがいる。


(先生の元に戻ろうかな。でも、荘周そうしゅうという人と会えていない)


 荘周、自分を拾ってくれたという人物。その人に一言お礼を言いたいと思いながら、斉の都の中を歩く。


(ここで色んな人にあった。ここだけじゃない。別のところでも)


 出会いも別れも経験しながら、多くの人々と出会い、色んな考えがあることを知った。


(楽しかったなあ)


 色んな人と出会い、色んな話しを聞く。そのことだけでも本当に楽しかった。


 その時、ふとある者が視界に入った。髪の長い男が目の前を横切ったのである。その姿は話しに聞く荘周のようであった。


(まさか荘周なのか)


 思わず、田文は彼を追いかけた。


「荘周先生ではありませんか?」


 そう聞くと男は、荘周は振り向いた。


「そうだ私が荘周だ」


(この人が……)


 度々見る、雨の中の人だと、彼は思った。この人こそが自分を拾ってくれた人なのだ。


「田文と言います。あの」


「知っている」


 荘周はそう言うとそのままスタスタと城門に向かって歩いていく。


「待ってください」


 田文は彼の後を追う。


 荘周は田文に見向きもせずに歩く。これを田文は必死に追いかける。


(足が速い)


「お前、何故私を追いかけるのだ?」


 城を出て、森に近づいてやっと止まった荘周に田文は息を切らせながら言う。


「あの、あの時のお礼を言いたくて」


「お礼などいらん」


 荘周はそう言うと再び歩き出す。


「じゃあ一緒について行っても良いでしょうか」


「ふん」


 その言葉を聞いて、荘周は足を止めると鼻で笑った。


「お前はこちらにはこれんよ。お前は少々俗世に関わり過ぎているからなあ」


「そうなのですか……」


「お前のいるべき場所は別のところにある。そこでお前は天の時を動かすのだ」


(天の時……)


「そんな私は……」


「田嬰に会って、傷ついたか?」


 荘周は笑みを浮かべながらそう言う。


「いえ、予想はしていたことでしたから、あんな人だと思っていましたから……」


「だから私のところに逃げるのか?」


 荘周はからからと笑う。


「滑稽なことだ。全く、我ら道家の世界は避難所ではないのだぞ」


「そんなつもりは……」


 田文は思わずそう言う。


「それが逃げるということだ。お前は傷つきたくないだけだ。傷つきたくないから私のところに来たのだろう?」


 荘周は屈んで地面の上の石を手にとった。


「お前は田嬰の一面しか見ていない。人間とは、人とはたくさんの顔を持つものだ」


 荘周は石を田文の前に向ける。


「これは何に見える?」


 田文はどういう意味かと思いつつも正直に答えた。


「平べったい石かと思いますが……」


「石か。だが、もしかすればこれは宝石かもしれんぞ」


 目の前で拾った石が宝石なわけではない。


「宝石ではないと思います」


「それは汝の主観でしかないのではないか。これを宝石だと思い大切にする者もいるかもしれない」


 荘周は言う。たった一つの見方だけで物事を見てはならないのだと。


「さて、この石のこちら側が表で、こっちが裏だ」


 彼は田文にそう言うと石を上に投げた。そして、落ちていくのを手の甲で受け止め、その上に手を重ねる。


「さあこの石は表か裏かお前はどう思う?」


 どちらだろうかと思いながら田文は表と答えた。荘周は笑いながら手を退ける。すると手の甲にある石は、


「表でも裏でもない。立っている」


 石は手の甲の上で表でも裏でもなく石は手の甲の上で立っている。


「正解はどちらもだな」


 荘周は苦笑する。


「表か裏か。善か悪か。そんな二択で物事は成り立っているのではない」


 彼は田文に石を与え言う。


「お前は田嬰の一面しか見ていない。それだけで田嬰を知った気でいる。それはお前が出会ってきた者たちと比べどうだ?」


(色んな人にあった。色んな考え方があると思った。でも、未だにあの人が、父がどんな人なのかをまだ知らないでいる)


 知っていることがあるとすれば、田嬰は父であり、冷たい人であり、食客たちが田嬰の危機を救おうとしたことだけである。


(何故、あんな人のために助けようとしたのだろう)


 あの人にそれだけの徳があるというのだろうか。確かにあの人のことを何も知らないでいる。


 田文は頭を下げると斉の都に向かって行った。


「思う存分に生きろ。この混沌の世を、数多の者たちを率いてな」


 荘周はふっと笑うとどこかへと消えていった。
















 田嬰の元に田文は戻ってきた。


「何故、戻ってきた?」


 田嬰が尋ねると田文は顔を横に向けつつ言った。


「ある人に言われました。一面だけを見て知ったつもりでいると……」


 田文は田嬰に顔を向け言った。


「あなたが何故、食客たちが救おうとする人なのかを知りたいと思っただけです」


「そうか……」


 田嬰は苦笑した。それを見て田文は意外そうな表情を浮かべる。


(こんな風に笑う人だったのか)


「良かろう。それが今のお前がやりたいことだと言うのなら、ここにいるが良い」


 田嬰はそこまで言って、ふと考え込むような素振りを見せるとこう言った。


「そうだな私だけでなく食客たちのことを見てみることだ。お前が見たこともないような者たちが中にいる。お前に彼等の世話係を任じよう。存分にやるといい」


「食客たちの……」


「嫌か?」


「いいえ、喜んでやらしてもらいます」


 田文は拝礼した。その姿を田嬰は目を細めつつ、


「あの者たちは面白いぞ。いつ見ても飽きることがない」


 と言った。


 その表情は初めてあったような冷たい表情とは田文は違ったように思えた。








 



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