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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第三章 合従連衡
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翻弄

 孫臏そんぴんの死は斉の国中に、他国中に伝わった。


 外交の使者として他国にいた淳于髡じゅうこんは驚き、悲しんだ。


「人使いの荒い方であったが、偉大な人がいなくなったものだ」


 蘇代そだい蘇厲それいも、


「孫臏殿が死んでしまったって」


「悲しいね」


 彼の死を悼んだ。


 魏の恵王けいおうは孫臏の死を喜んだ。


「やっとあの男が死んだぞ」


 笑う彼に孟軻もうかは首を振った。


「敵とはいえ、その死を笑うというのは……」


 王の態度ではない。そうは思いつつも子を殺した相手でもあるため、難しいものがあるのは彼としても理解できないわけではない。


田文でんぶんはどうしているだろうか)


 ふと、田文のことが気になった。


 秦では、張儀ちょうぎは含み笑いをする。


「斉の孫臏が死んだか。斉の軍事の中心がいなくなった」


 秦の恵文王けいぶんおうは無表情である。


「その者はそれほどの者なのか」


「はい、かつて強国というべきでした魏を今の状況まで追い込んだのは彼ですからなあ」


「そうか。それほどの男であったか。だが、死んだのであれば良いものだ」


「ええ、全く」













 秦は紀元前331年に義渠(戎族)による反乱が起きていたが、秦の庶長・操によって容易く鎮圧した。


 一向に衰えることのない秦は魏への侵攻を苛烈に行った。


 紀元前330年には魏の焦と曲沃を取り、紀元前329年には汾陰と皮氏をも取った。


 秦が魏へ侵攻を続ける中、ある事件が起きた。


 宋公・剔成の弟・偃が剔成を襲い、剔成は斉に奔ると偃が自立して宋君になった。偃は後に王を称し、宋の康王こうおうと呼ばれ、宋の桀とも呼ばれることになる。


 また、この年、楚の威王いおうが世を去り、楚の懐王かいおうが跡を継いだ。


 魏はこの楚の喪に服しているところに侵攻を行った。もちろんこれに孟軻は反対したが、恵王は聞き入れることはなかった。


 ますます恵王の評判は落ちていった。


 紀元前328年


「本当に魏は素晴らしい売り手ですわあ」


 張儀はにこにこしながら言う。


「たくさん土地を買わせて下さる」


 彼は秦の公子・と共に魏の魏の蒲陽を包囲し、占領した。


 その時、趙が魏を助けるため侵攻してきたという報告を受けたが、


「気にしなくとも良いでしょう。さて、公子。私は国に戻ります」


「国に戻ってどうなさるのか」


「いや、魏からもっと土地を買わせてもらいたいと思いましてね」


 彼はにやりと笑った。


 張儀が帰国している中、秦へ侵攻した趙軍であったが、司馬錯しばさく率いる秦軍に河西で大敗を喫し、大将の趙疵は戦死し、その勢いのまま秦軍は藺と離石を占領してしまった。


 一方、秦に戻った張儀は恵文王に進言した。


「蒲陽を魏に返し、公子・繇を質(人質)として魏に送るべきです」


 怪訝そうな表情を浮かべる恵文王に張儀は舌を出して言った。


「この舌で、蒲陽を失う代わりに多くの城を買ってみせましょう」


 恵文王が許可すると張儀は魏に向かい、恵王に言った。


「秦はこのように魏を厚く遇しております。魏は秦に対して無礼であってはならないとは思わないでしょうか」


 恵王が同意しようとすると孟軻もうかが止めた。


「秦の詐術に惑わされてはなりません」


 だが、恵王は聞き入れず、上郡十五県を秦に譲って謝意を示した。


「本当に良いお客さんだ」


 けけけと張儀は笑う。


 それにしてもこの恵王の弱気な態度はなんであろうか。もしかすればこの時の恵王はすっかり心が折れていたのかもしれない。そのためここまで無気力であるのかもしれない。しかし、それに巻き込まれる民にとってはいい迷惑である。


 今の恵王は民も国も何も見ようとせず、自分のことだけを考えている。


 魏は暗い国となっていた。

 

 張儀は秦に帰国するとこの功績を評価され、宰相に任命された。これに不満を持ったのが公孫衍である。


「おのれ、張儀め」


 本来は自分がいたはずの地位である。


「くそ」


 彼は後に秦を出て、張儀に対抗を始めることになる。










 紀元前327年

 

 秦が義渠(西戎)に県を置き、その君を臣にした。

 

 その後、秦が焦と曲沃を魏に返した。これに魏は喜んだ。

 

 後世においてこの時のことをこう述べている。


「秦にとって魏は掌股の上で嬰児を弄ぶようなものであった」


 これがかつては強国と呼ばれた魏の姿であった。


 紀元前326年


 趙の粛公しゅくこうが世を去り、息子の趙の武霊王ぶれいおうが即位した。


 彼は翌年の紀元前325年に陽文君・趙豹ちょうひょうを宰相に任命し、まだ若いことから三人の博聞師(国君が学術等を問う官)と三人の左・右司過(諫議の官)を置き、政治を行う時には、まず先王の貴臣・肥義ひぎに意見を求めることにし、その秩禄を増やした。

 

 また、国内の三老(徳がある老人)で八十歳以上の者には、毎月礼物を贈るなど、国内での信望を集めることに力を入れた。


 この武霊王こそ、この趙を強国に押し上げると同時に、趙を混乱させることになる人物である。


 この時、斉と魏の連合軍による趙への侵攻が行われ、趙は韓と連合してこれと戦った。


 斉の将は田肦、趙の将は趙護、韓の将は韓挙で、魏の将は不明であった。

 

 両軍は平邑で戦い、趙・韓連合軍が破れた。韓挙は桑丘で戦死するほどの大敗であった。

 

 斉はそのまま平邑・新城を取った。


 このことから武霊王は斉に対して大きな悪感情を持つことになる。



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