退場
時代は激しい変動が起こっていたが、田文はその変動に巻き込まれることはなかったが、
「斉を去るんだね」
彼は目の前の二人に言った。
「田文には悪いけど」
「斉にはいたくないんだ」
蘇代、蘇厲の二人は田文としばらく一緒にいたが、斉に離れることにした。斉が兄・蘇秦の合従をぶち壊しにしたことで二人は斉を憎んだ。
年はそれほど離れていない彼等と過ごした日々は田文にとっては新鮮で楽しかっただけに彼等と別れることは残念に思えた。
「斉は嫌いだ」
「でも、君は好きだよ」
二人は揃えて言う。
「「だから君がもし私たちの力が必要と思った時、必ず君の力になろう」」
そう言って二人は斉を去っていった。
「寂しくなるなあ」
田文は二人との別れを惜しみながら、孫臏の屋敷に戻った。今、彼は孫臏の屋敷で世話になっている。
そこで孫臏から兵術を学ぶと同時に捨てられていたところを救ってくれたという荘周を探していた。
荘周のいる場所を知っているかもしれないと考えて会ったのは道家の人々である。今、斉には二人の道家の大家がいる。
一人は田駢という男である。もともと斉の出身の人物で彼の主張したのは万物平等論である。詳しい内容は省くが、どうにも彼は回りくどい言い回しを好むようで、彼を招いて教えを聞いた斉の威王は苛々してこう言った。
「私は斉を治めている。願わくば国政について聞きたい」
すると田駢は言った。
「私の言葉は政治は無関係に見えますが、これは材木を欲しがっている人に林の中の木の話をしているようなものであり、私の話には政治にも取り入れることができます」
その言葉を聞き、威王はますます人材集めに勤しむようになり、宣王の時代になると数多の学者が集った。彼等のことを後世では、 「稷下の学士」と呼ばれるようになる。
因みに稷とは斉の城門の一つの名前である。
もう一人は慎到という。出身は趙の出身で、彼は道家の者であると同時に法家思想の部分もある主張を展開したことで有名である。
道家と法家の折衷案を彼は提案した。
そんな二人に荘周のいる場所を聞いたが二人は知らないと答えた。
「あの方はある時は何もない荒野に、ある時は木々茂る森の中に、ある時は人が集まる市場に」
「あの方を会おうとすれば、逆に会えん。会おうと思わない時にふと、目の前に現れることもある」
「そういう方なのだ」
田文はあまり深く理解できないままに彼等にお礼を言って、立ち去った。
屋敷に戻る途中、屋敷の前に馬車があることに気づいた。そして、その馬車から筋骨隆々の男が出てきた。
「うん孫臏の弟子か?」
「あなた様は?」
「私は田忌という」
男はそう言って田文を頭を撫でた。
屋敷に入って来た田忌を孫臏は迎え入れた。
「お久しぶりですね」
「ああ」
「主公があなたをお戻しに?」
斉の宣王は威王が重用している将軍たちをあまり信用しなかった。そんな彼が目をつけたのが田忌であった。
彼は威王の時代に出奔していることから、威王への忠誠心よりも自分への忠誠心が強まるだろうと考えたのである。
「先君が亡くなられたのは悲しいことだが、こうして斉に戻れたことは嬉しいものだ」
「そうですか、されどお戻りになられて良かった」
孫臏の言葉に田忌は笑う。
「随分、しおらしいではないか……」
そこまで言って、酒を飲もうとした腕と止めた。
「どうされましたか?」
田忌は盃を置くと、言った。
「死ぬのかお前」
その言葉に近くで聞いていた田文は驚く。一方、孫臏はくすくすと笑う。
「どうにも人を殺しすぎたようでしてね。早く来てもらいたいようですよ」
彼は穏やかな表情を浮かべながら部屋の隅を見る。そこから多くの骸骨の手が伸びているのが彼には見える。
「そうか……」
田忌はそう呟いて、ぐっと酒を飲んだ。
「孫臏先生、全然お元気ではありませんか」
田文は孫臏に近づき言う。
「田文、君には色々教えてあげたかったのだが……そろそろ無理そうだ」
彼は田文の頭を撫でる。
「私はたくさん人を殺してきました。しかも手を汚すことなくね。でも、そのことを後悔したことはありません。それどころか自ら率先してやって来ました」
田文の前には優しそうな表情をしている孫臏がいるだけである。しかし、孫臏からは恐ろしさを感じる。
「兵術はたくさんの人々をどのように効率よく殺し、自軍は殺さないかを極めるものです。あなたが私から学んだものはそう言ったものだということを理解しなさい」
田文は静かに頷く。
「恐らく君は多くの者を殺す存在となります」
その言葉に田文はぎょっとする。
「しかし、私とは違って君は、それ以上に多くの人を生かし、弱気者たちを救う者となることでしょう。私は抑えきれないもののためにそれを成すことができませんでした」
その時、孫臏が浮かべた笑みはどこか弱々しく思えた。田文は膝をついて彼の手を取った。
「そんなことはありません。先生は斉の人々をお救いになられています」
この人もまた、どこかで助けを求めていた人だったのだ。田文はそう思った。
「そうだ。その者の言うとおりだ」
田忌はそう言った。そのことに孫臏はくすくすと笑う。
「お優しい方々だ」
彼は田忌を見た。
「この子は田文と言います。今、宰相をやっている田嬰の息子です」
「あの田嬰のか。なんだ隠し子か?」
彼と田嬰は仲の良い悪いはあまり無い。
「捨てた子らしいです。ただ優秀ならば会いたいと申しており、今は田嬰殿も忙しいようでお会いできてはいませんが、その間まで田文のことを預けてもよろしいでしょうか?」
「それは構わんが」
「感謝します」
田文は首を振る。それを無視して孫臏は言った。
「田文、田嬰殿ともしっかりと会うんだよ。あと、荘周にも会えるといいね」
「先生……」
涙を流す田文に孫臏は優しく言う。
「さあ、田忌殿の元に行きなさい。大志を胸に存分に生きなさい」
「はい……」
拝礼する田文の見て、頷いた。そして、田忌を見る。
「田忌殿、田文を、この国をお願いしますね」
「ああ、任せろ」
田忌が田文を連れ、去った後、屋敷の中には静粛さに包まれた。
「おや、珍しい方がいますね」
孫臏の後ろに静かに一つの影が伸び、一人の男が現れた。
「初めましてと言うべきでしょうか。荘周殿」
「ああ、そうだな」
孫臏はくすくすと笑う。
「全く、あなたに会いたがっている人の前には現れないくせに私などの前には現れるのですね」
「天邪鬼なものでね」
二人は笑う。
「友を殺し、天下一の才を見せつけ、魏を天下の主導者から叩き落としたほどの方が一人、寂しく世を去ろうとしておられるのがかわいそうに思えましてな」
「おやおや天下の荘周様にそのように言っていただけるとは光栄ですね」
孫臏はくすくすと笑う。
「田文に会わないのですか。彼はあなたよりも会いたがっていますよ」
「そう簡単に会っては面白くないではないか」
「困った人ですねぇ」
孫臏は近くにある骸骨を抱き寄せる。
「全く、あなたのような人にこれから関わることになる田文がかわいそうに思いますよ」
骸骨を撫でる彼の目の前は段々と掠れていく。
「はあ、たくさん人を殺したなあ。それでも最後は田文に色々教えたことだし、釣り合いは取れたかな。どう思います荘周殿」
「お前によって天の時は大きく動いた。その事実だけがあるに過ぎない」
「そうですか……田文はどんな風になるんでしょうね」
孫臏は骸骨を撫でながら目を閉じてそう言った。
「この世でもっとも傲慢にして、強欲な英雄になるだろう」
「それはそれは、楽しみですねぇ。見れないのが残念ですが……」
こくりこくりと孫臏の首が揺れ、やがて止まった。
「役者は役目を終えれば、舞台を降りるものだ。それだけのことであろう」
静かな部屋の中、荘周の言葉は闇に溶けていく。
「さて、静かに去ろうとしよう」
風のように荘周は消えた。
骸骨が手から落ちて、音を鳴らした。