天下一の詐欺師
二年前のこの日から中国の歴史物を書いているんだなあと台風の中、しみじみと思っています。今後もよろしくお願いします。
笠を被り、歩く一人の男がいた。
男の黒貂の服は破れ、諸国を回るために必死に集めた黄金百金の資産も使い果たし、草鞋を履き、脚に布を巻き、書籍を背負い、荷物を担いで歩く彼の様子は、枯れ木のように精気がなく、顔は憔悴して黒ずみ、失意の面持ちであった。
彼の名は蘇秦という周の洛陽の出身である。
蘇秦は庶民の出であるものの、この乱世の世に名を残そうと志して、斉に遊学した。
その彼の師となったのを鬼谷子である。
鬼谷子はかつて墨子の元から去った後、学問というよりは国際外交における謀略といった術を教えるようになった。
その彼の教えを元に蘇秦は諸国を遊説したが、結果を出すことはなかった。
すっかり疲れ果てた彼は故郷に戻った。
だが、故郷の家族が自分に向ける目は冷めていた。
妻は機織りの手を止めることなく夫の帰りを無視し、嫂は蘇秦の食事を作らず、父母も口をきこうとしなかった。そして、彼等は蘇秦に向かって嘲笑して言った。
「周人の俗(習慣)とは、産業に勤めて工商に力を尽くし、十分の二の利益を得ることを生業とするものだ。しかしお前は本業を棄てて口舌で事を成そうとしている。困窮するのは当然のことであろう」
これを聞いた蘇秦は慚愧し、深く傷ついて部屋に閉じこもってしまった。しかし工商業に就くのではなく、一層読書に励んだ。
蘇秦は自分の蔵書を全て読み直してこう言った。
「士が既に頭を下げて書を受けたにも関わらず(師に教えを請うたにも関わらず)、それで尊栄を得ることができないようでは、たとえ多くの書を読んだとしても意味がない」
やがて、蘇秦は蔵書の中から周書(西周時代の書籍)の『陰符』を見つけ、机に伏してそれを熟読し始めた。
その一年後、蘇秦は書中の真理を習得してこう言った。
「これで当世の国君に遊説できる」
実はこの男、遊学に出た時に鬼谷子の学問しか学んでおらず、その他のことをほとんど学ばずにこれだけで行けると思っていた節がある。
それを反省したのがこの時であった。
蘇秦は早速、周の顕王に謁見した。しかし顕王の近臣たちはかねてから蘇秦のことを知っており、蘇秦の知識が浅いと思っていたために軽視し、顕王に蘇秦を用いないように進言したために彼は用いられることはなかった。
「時代の流れには逆らえないものだな」
彼は当時、大きな勢力へと成長していた秦に出向いた。
商鞅の変法改革によって秦は大きく成長した。この秦に対して、諸国間で二つの流れが生まれた。
一つは連衡(連横)、もう一つは合従である。
連衡とは東方の列国が西方の秦と同盟する策のことである。秦と同盟した国はそれ以外の国を攻め、強国秦の庇護下に入って勢力を拡大するというのが連衡の主旨である。
合従(この「従」は「縦」の意味)は連衡の逆で、東方の列国が縦に同盟して西方の強国秦に対抗するというものである。
蘇秦は秦に行ったことから連衡の考えを持って来た。
秦では孝公が死んだばかりであり、秦の恵文王の時代になっていた。
蘇秦は恵文王に言った。
「秦は四方が険阻な地形に囲まれた国でございます。周辺には山があり、渭水が流れ、東には関(函谷等の関)と河(黄河)が、西には漢中が、南には巴蜀が、北には代馬(代の地の馬。代は良馬の産地)がございます。これは天府の地(天然の府庫。土地が肥沃で食糧物資が豊富な土地)というべきでしょう。秦の士民の衆(豊かな兵民)と兵法の教(兵法による教習。訓練された兵)を用いれば、天下を併呑して帝を称すこともできましょう」
この時、彼は魏との関係回復を図るべきと主張した。
しかしながら恵文王は、
「毛羽(羽毛)が生えそろっていなければ高く飛ぶことはできないものだ。文理(道徳教化)が明らかでなければ天下を兼併することはできないだろう」
恵文王が断った理由として、商鞅を殺したばかりで弁士を警戒していたためであるとされているが、どうだろうか?
この年、恵文王は陰晋の人(魏人。徐晋の人という説もある)・犀首を大良造に任命している。犀首は官名で、姓は公孫、名は衍という。
蘇秦が受け入れなかったのは恐らく彼の警戒によるものであろう。
彼は魏への侵攻を考えていたのである。
「おのれ、私の言葉を聞き入れなかったことを後悔させてやる」
蘇秦は秦を去って東の趙に行った。
しかし、そこでも受け入れなかった。趙の宰相・奉陽君(趙の粛公の弟・趙成に気に入られなかったため、国君にさえ謁見できなかった。
そこで彼は次に燕に向かった。
この時の燕の国君は燕の文公である。蘇秦は彼に進言した。
「燕が秦の甲兵に侵攻されないのは、趙が南の壁になっているためです。秦が燕を攻めるには、秦の千里の外で戦わなければなりませんが、趙が燕を攻めれば趙の百里内での戦いになります。百里の患を憂いず、千里の外を尊重するようならば(隣国である趙の侵攻を心配せず、遠国の秦と親しくするのなら)、これ以上に誤った計はないかと思います。国君は趙と親しくされ、天下(燕と趙)を一つにされるべきです。それができれば燕には患がなくなりましょう」
文公はこれに従い、蘇秦に車馬を与えて趙の粛公を説得させることにした。
一介の弁士に過ぎなかった彼が一国の国使となった瞬間であった。




