墨翟
遅れました。
戦国期に入ると各国の生産技術が発展し、建築技術も発展した。
その結果、多くの城塞が築かれることになった。これらの城塞が築かれたことで、簡単に城を落とすことはできなかった、そのため相手の城を落とすため、戦争兵器の向上が図られた。
そんな中、武威の国である楚は戦争に勝つため新たな兵器を作ろうと後世においては伝説的な技術者であった公輸盤を招いた。
公輸盤が楚の要請を受けて開発したのが、雲梯(攻城用のはしご)であった。楚王はこれを使って宋を滅ぼそうとした。それを知ったのが墨子であった。
彼の本名は墨翟といい、魯の人であり、大工であったとか元奴隷であったなどという説がある。しかしながらどうやら彼は儒教を学んだことがあるようであるからそこまで低い身分の者ではないかもしれない。
墨翟は儒教を学んだが、彼は儒教を非難した。儒教が衰退していることだっただけに彼の非難は受け入れられたことで、台頭した。そんな彼が率いた思想集団を墨家という。
墨家の詳しい思想内容については省略するが、特徴的なのは二つである。一つは「兼愛」である。世の中が乱れているのは差別的な愛によるものである。そのため兼愛という全ての人民に対して、平等な愛が必要であるとする考え方である。
彼は差別的な愛として、儒教の考え方を上げている。
もう一つは「非攻」である。簡単に言えば、非戦論である。戦争によって世の中は荒廃させているのだとして、戦争などはやめるべきだというものである。
この思想を端的に表した言葉として、このようなものがある。
「人一人を殺せば死刑にも関わらず、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのだろうか」
しかし、墨翟は自衛のための戦争は容認している。そのため彼の率いる墨家集団は度々小国の城を守り、大国を撃退するということを行ってきた。守戦専門の傭兵集団とも言える集団であった。
公輸盤の発明した雲梯で宋を攻めると知った墨翟はそれを止めるため、楚に向かった。そもそも彼は公輸盤とは知り合いであった。
墨翟が公輸盤に面会すると公輸盤は言った。
「先生は自分に何をさせたいのでしょうか?」
墨翟は彼に対してこう言った。
「北方に気に食わない者がいるため、あなたの力を借りてこれを殺したいのだ」
そんなことを言われた公輸盤は顔をしかめた。墨翟が続けて、
「十金を獻上したい」
と言うと公輸盤は顔を横に向け、
「自分は義を大事にする、理由の無い殺人などできない」
と言った。すると墨翟は立ち上がって再拝して言った。
「では、申し上げたい。私は北方にいてあなたが雲梯をつくり宋を攻めると聞いた。宋に何の罪があるのでしょうか。楚は土地が余り人民は足りないにも関わらず、足らないものを殺して余るものを奪おうとしている。智であるとは言えない。宋は無罪にも関わらず、これを攻めるのは仁とは言えない。知って見逃すのは真心とは言えない。諌めて容れられないのは強と言えない。少人数でも殺していけないことを分かっていながら大人数なら殺していいなど知とは言えない。そうではないでしょうか?」
公輸盤は服した。そのとおりだという意思表示である。
「なら、なぜやめないのでしょうか?」
墨翟がそういうと公輸盤は首を振った。
「出来ない。私はすでに楚王に約束しているからだ」
彼がそういうと墨翟は言った。
「楚王にお目にかかれないだろうか?」
「いいでしょう」
こうして墨翟が楚王に謁見することになった。墨翟は言った。
「金持ちであるのに、人のものを盗もうとする。これをなんというでしょうか?」
楚王は、
「盗人である」
と答えた。
「楚の地は方五千里であり、宋の地は方五百里です。楚は犀・兕(水牛)・麋・鹿など多くの生物がおり、長江漢水には魚・鱉・黿(大亀)・鼉などがおり、天下第一と言えましょう。かたや宋は雉兔狐貍さえ碌におりません。楚には長松・文梓・楩・柟・豫章がございますが、宋にはろくな木がございません。私は三つのことで宋を攻めましたが自分の見るところ王の為されようはこれと同類で義に悖りうまくいかないでしょう」
墨翟の言葉に楚王もそのとおりであるとするが、
「公輸盤の作った雲梯があれば、宋を手に入れることができる」
と言って宋への侵攻を取りやめようとはしなかった。しかしながら宋を攻める非を受けたこともあってか。彼は続けてこう言った。
「先生が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、先生がそれで守りきったならば、宋を攻めることは白紙にしましょう」
これを受け、墨翟は公輸盤を見やり,その帶を解いて城となし,牒(木片)を械(城楼)とし模擬戦(机上演習)をやった。
この机上模擬戦の結果、墨翟は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕が有るというほどに圧倒した。
楚王がそれを見て、関心する中、楚王の面前で面子を潰されたと感じた公輸盤は、
「私には先生を破る方法が有るが申し上げない」
と言った。楚王は彼の言葉の意味がわからないという表情を浮かべた。するとすかさず墨翟は言った。
「彼の言う秘策とは、私をこの場で殺してしまおうというものです。しかしながらすでに私の秘策を授けた弟子三百人を宋に派遣してあります。故に私がここで殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせることでしょう」
こうして再び彼は公輸盤をやりこめた。そのやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを彼に誓った。
さて、この話の面白いところは墨翟が楚から帰る途中、宋へと至った時、雨が振って来た。そこで宋の城門の軒先で雨宿りをしようとすると宋の兵は彼を乞食と勘違いして、追い払ってしまった。
墨翟は最後にこう言った。
「神の世界を治めるものの功績というものは、民衆には分からぬもの。表立って眼に見える功績というのは、よく分かるのだが」
この最後の彼の言葉は宋に三百人の弟子など派遣されていなかったという意味も含まれており、話のオチとしては見事としか言いようがない。
しかし、彼の言葉のように墨家の思想は後世の人々に受け入れられることはなかった。戦争はいけないことだと明言した思想にも関わらず、この思想は力を持つことはなかった。
理由としてはこの思想を残した書物が始皇帝による焚書坑儒によって燃やし尽くされた可能性がある。また、この墨家の集団を一種の傭兵集団と述べたが、彼等が城を守ったことで、恐らく報酬を与えられたことだろう。これを受け取らないほど、墨翟が聖人だとは思えないだろうから受け取っているはずである。
つまり彼等は戦争は駄目としておきながらも、戦争によって彼等は稼ぐことができるのである。これには思想的な矛盾が生まれており、この矛盾を昇華するほどの思想的、広がりを彼等は実現できなかった。
始祖である墨翟が生きている間は、その矛盾は目立つことはなかった。しかし、彼が世を去ると墨家は三つの集団に別れ、対立することになる。
そもそもこの墨家の思想が書かれた「墨子」は墨翟と功利主義的な弟子たちとの問答が多い。そのため弟子たちの中には金銭欲が強い者、傲慢な考えの者などが多かったのではないか。
そのため弟子たちの対立は激しいものであったと予測できる。
墨家は思想的広がりを作ることはできない思想であり、傭兵集団として活動するうちに宗教活動を怠るようになった。故に墨翟の後、衰退していったのだろう。