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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第二章 諸子百家鳴動
39/186

越国

 韓は干害に襲われていた。

 

 しかし韓の昭公しょうこうは民の救済を疎かにし、高門の建築を始めた。これを止めたであろう申不害しんふがいは世を去ってしまっている。

 

 この時、韓にいた楚の大夫・屈宜臼が言った。


「韓の国君はこの門を出ることができないだろう。『不時(時に順じていないこと)』だからだ。私が言う『時』というのは、日時のことではない。人には利と不利の時があり、かつて韓の国君には利があったが、その時には高門を造ることはなかった。ところが、前年、秦が宜陽を攻略し、今年は旱害に襲われているにも関わらず、民の急務を顧みず奢侈を増そうとしている。これは多難な時に強がる(時詘挙贏)というものだ。だから『不時』なのだ」









 

 趙の粛公しゅくこうが大陵で遊び、鹿門(地名)を出た。

 

 しかし趙の宰相・大戊午が粛公の馬を抑えて、


「耕事(農事)が忙しい時でございます。一日耕作を行わなければ、百日の食を失うことになります」


 と言った。

 

 国君が巡行すれば各地でもてなしをしなければならず、農業が疎かになる。

 

 粛公は車から降りて謝罪した。











 

 越では王之侯(「無余之」、または「莾安」)が死んでから子の王無彊が即位していた。王無彊は中原と頻繁に争っており、北は斉、西は楚を攻撃していた。


 かつての覇者としての時代を忘れられないためであろう。


 そんな中、斉は魏と共に王号を称した。これに激怒した王無彊は斉へ侵攻した。


 王号を称した途端に、侵攻された斉の宰相・田嬰でんえいは斉の威王いおうの指示により、対応を行うことになった。

 

 彼は使者を送り、王無彊にこう伝えた。


「越が楚を討たなければ、大においては王を称すことができず、小においては伯(覇者)になることもできません。それにも関わらず、越が楚を討伐しようとされないのは、韓・魏の協力を得られないからではありませんか。韓と魏には元々楚を攻めるつもりがございません。韓が楚を攻めて、もしもその軍が覆滅し、その将が殺されれてしまえば、葉や陽翟(どちらも楚との国境)が不穏になります。魏ももしその軍が覆滅してその将が殺されてしまえば、陳や上蔡(どちらも楚との国境)が不穏になります。そのため韓も魏も単独では楚と戦おうとしないのです。しかし二カ国が越に協力して楚に対抗すれば、その軍が覆滅することはなく、その将が殺されることもなく、馬汗の力(汗馬の労。戦の労力)を必要とすることもありません。なぜ二カ国を重視して協力を得ようとしないのですか?」

 

 王無彊が言った。


「我が国がその二カ国に望むのは、彼等が営塁を築いて楚と直接戦うことではない。楚の城を攻めて邑を囲むというようなことは、なおさら望んでいない。魏には大梁の城下に兵を集結させ、斉には南陽(斉の南境)や莒地(南陽の東)で兵を鍛え、常・郯(どちらも斉南部)の境に兵を集結してもらいたいだけである。そうすれば大梁に魏軍が集結して楚を牽制しているために楚は越を攻撃できなくなり、淮水と泗水の間の楚軍も東に進むことができなくなる。また、商、於、析、酈(四邑とも楚の西南)や宋胡(宗胡)の地にあたる夏路(中原に向かう道。夏は中華の意味)の左(西)の楚軍は秦に対する備えも充分にできず、江南、泗上(越との国境)の楚軍は越に対抗する力もなくなる。その結果、斉、秦、韓、魏が楚の地において志を得ることができ、二カ国は戦わずに地を分け合い、荒野を耕さなくても田地を得ることになる。しかし今の二カ国は河山の間で互いに攻伐しており、斉と秦に利用されている。我が国が頼るべき韓と魏がこのように計を失しているにも関わらず、どうして彼等に頼って王を称せるのだろうか?」

 

 斉の使者は首を振り言った。


「越が今まで亡びなかったのは幸いと言うべきでしょう。私にとっては、彼等が智謀を用いているかどうかは重要ではございません。なぜならば、その智謀は目のようなものだからです。目は細い毛でも見ることができますが、目先の睫毛は見えないものです。今の王は二カ国の失計(失策)を知りながらも越の過ちを知りません。これは目論(細い毛は見えるのに睫毛は見えない例え)と同じようなものです。王が二カ国に望んでいるのは馬汗の力ではなく、連合して和すことでもなく、ただ楚の衆(軍)を分散させることだけのようですが、既に楚の衆は分散しているのです。これ以上、何を望むというのですか?」

 

 王無彊が説明を求めると使者は説明した。


「楚の三大夫が九軍を指揮して北上し、曲沃(魏)と於中(秦)を包囲しております。そこから無假の関(または「西假関」)までは三千七百里に及びます」


 今、楚は秦と魏へ侵攻を行い、曲沃と於中を包囲している。このことから秦・魏との前線が長くなっているということであるが、この無假関の位置がよくわかっていない。


「また、景翠の軍が北の魯、斉、南陽(韓)に集まっています。これよりも分散することはないでしょう(西部は秦・魏と戦っており、中部と東部は魯・斉・韓と対峙している)。王が求めているのは晋・楚の戦いで、晋・楚が争わなければ、越は兵を起こさないつもりのようですが、これは二つの五があることを知っているのに一つの十があることを知らないようなものです。この機会に楚を攻撃しないため、私は越が大においては王になれず、小においても伯になれないと判断しました。讎(犨)、龐(または「寵」)、長沙(三つとも楚の邑)は楚の粟(食糧庫)であり、竟沢陵(竟陵沢)は楚の材(木材を産出する地)なのです。越が秘かに兵を動かして無假の関まで開通すれば、この四邑(犨、龐、長沙、竟陵沢)は郢(楚都)に貢納(食糧や木材の輸送)できなくなります。王を目指す者はたとえ王になれなくとも、まだ伯(覇者)になることはできます。しかし伯にすらなれない者は、完全に王道(王になる道)を失ってしまいます。王が楚に攻撃を転じることを願います」

 

 王無彊は斉の使者の言葉を聞いて斉討伐を中止し、楚を攻撃した。

 








「田嬰殿は失策を犯した」


 越が楚に矛先を変えたという報告を受けて、現在、魏にいる孫臏そんぴんはそう言った。


「何故、そう言い切れるのだ?」


 淳于髡じゅうこんが問うと、彼は答えた。


「田嬰殿は斉への侵攻を行った越に対して、楚が前線を伸ばしている隙を突いて、楚の重要な拠点を狙わせました。しかしながら楚は確かに前線が伸びきっているとはいえ、楚王自身は出陣しておらず、楚王を守る楚の主力軍は自由に動かすことができます」


「だが、これはあなたが馬陵の戦いで行った時と同じ構図にはならんのか?」


 馬陵の戦いでの魏が韓へ攻め入っている隙を突いて、仕掛けたのと確かに見た目的には似ている。


「確かに、されど、似ているように見えて、実情は違います。そもそもあの馬陵の戦いでは、先ず、韓へ攻めている魏軍は韓軍との戦いである程度疲弊をしていました。まあ、そのようにしたのは私ですが、それはともかく、一方、この楚の場合は確かに前線で他国と戦っているというのは共通はしているものの、戦況においては楚が優勢であり、余裕があります。決して疲弊しているとは言えません」


 余裕のある戦いをしている楚軍は魏ほどに慌てる必要性がないのである。


「次に兵の強さです。魏と斉でも魏の方が兵としては上でした。しかしながら斉は斉なりに鍛え上げた兵であり、策によって覆せるほどには差はそれほど大きなものではありませんでした。一方の楚と越では、楚の方が圧倒的に上であり、越は度重なる内乱によって、兵の質は著しく低下しております。また、その力の差を埋めるような策を講じている様子はありません」


 また、孫臏は徹底的に魏軍とまともに正面切って先頭を行わないようにしており、策を多く講じて戦を行っている。


「最後に馬陵の戦いの際、魏軍は防備をしっかりと固め、時間稼ぎに徹するなど我々と戦わないという選択を行えば、あれほどの大敗を喫することはなかったのです」


「そのようにしないために私を魏に行かせ、魏の太子を出陣させたのであろう。それならば、楚も同じように楚王自ら動いて、守りを固めずに勝負しようとするのではないか?」


 淳于髡の指摘に孫臏は頷きながら言った。


「そのとおりではありますが、恐らく楚王は出陣の時を間違えることがないと思います」


「出陣の時?」


「はい、私がもし楚にいれば、先ず越の侵攻先に防備を固めさせ、越軍の疲弊を誘う。そこに万全の準備を行った楚軍の主力をぶつけて、撃破する。魏もやろうと思えばできたことなのですよ」


 彼の言葉に淳于髡は納得しながらも、


「しかし、そこまで上手く転がるだろうか?」


 と指摘した。孫臏ばこう答えた。


「十中八九はそのとおりになると思いますよ。なにせ、楚には田忌でんき殿がおられますしね」


 田忌は孫臏の戦の内容をよく知っている。この状況での選択を誤ることはないだろう。











 彼の予想通り、楚は越の侵攻に対して、冷静に対処を行った。


 先ず、楚の威王いおうは田忌に対越に対する防備を固めることを命じた。


「さて、久々の戦か」


 田忌はその命令を受け、越軍に防備を固め、時間稼ぎに徹した。


 その間に準備を万全にした威王率いる楚軍は、疲弊した越軍に戦を仕掛けた。

 

 その結果、越軍は大敗し、王無彊も殺された。楚軍はその勢いのまま呉の故地を全て奪って浙江に至った。

 

 その後、越は分散し、諸公族が国君の位を争って王や君を名乗るようになるなど混乱の一途を辿り、江南の海岸沿いに分散した越の人々は楚に臣服した。


 このようにして越はもはや国としての形を失い、滅びた。


 この越の楚への侵攻が斉の宰相・田嬰の仕業であることを知った威王は越の領地の平定を行った後に斉への侵攻を行うことを決定した。








「やっぱり越は負けて、しかもその領地は楚に占領されてしまいましたか」


 孫臏は報告を受けて、ため息をついた。


「流石は孫臏殿ですな。予想通りに戦が行われた」


 淳于髡は彼を褒めた。


「いえいえ、大したことはありません。ただ、この結果で楚の怒りを買っただろうから、田嬰殿は中々に追い込まれてしまったわけだね。このように一回の失策で戦の勝敗は変わってしまうものなのさ。わかったかな。田文でんぶん


 孫臏は部屋の隅っこで話しを聞いていた田文にそう言った。


 田文は彼の言葉に緊張しながらも、


「はい」


 と答えた。


「さて、君のお父上はどうやってこの危機を乗り越えるのだろうね」


 孫臏は骸骨を撫でながらそう言った。

 



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