孟軻
魏の恵王はしばしば戦で失敗したことで自信を無くしたためか恭敬な態度をとって厚幣で賢者を招くことにした。
鄒衍、孟軻らが魏都・梁に集まった。
「鄒衍。久しいな」
孟軻は彼にそう言った。孟軻よりも鄒衍は年下で、同門の間がらであった。
「ええ、お元気そうでなりよりです」
鄒衍は儒教を学んだが、彼自身は陰陽家である。陰陽家の主張は陰と陽といった二つのもので世界が成り立っているというものであり、互いが互いに影響し合っているからこそ存在することができるという考え方である。
やがてこの考え方は五行説というものと結びつき、陰陽五行説と呼ばれるようになる。この思想の体系化、言語化を行い、発展まで活かしたのが鄒衍なのである。
目立たない存在であるが、思想家としては偉大な人と言えよう。
恵王は招いた人物の中で最も高い評価を与えたのは孟軻であった。恵王は彼に言った。
「あなたは千里を遠いと思うことなく魏に来てくれましたが、我が国にどのような利をもたらしてくれましょうか?」
この言葉に孟軻は言った。
「国君はなぜ利を口になさるのでしょうか。ただただ仁義があるのみです。国君が自分の国にどのような利をもたらすかを問い、大夫が自分の家にどのような利をもたらすかを問い、士庶人が自分の身にどのような利をもたらすかを問い、上下がそろって利を求めれば、国を危うくしてしまします。仁がない者は自分の親を棄て、義がない者は自分の国君を後ろにするものです」
誰もが利を求めれば、自分を優先して国君のことを考えなくなるということである。
恵王は納得した。
このように孟軻の考え方の基礎には仁義というものがある。
以前、孟軻は子思(孔子の孫)に師事し、牧民の道(民を治める道)において何を優先するべきか問うた。但し、ここで出てくる子思と孟軻が語り合うというのは年代的に難しいと思える。恐らくは子思の門人に問うたものであろう。
子思は彼の質問に、
「利を優先するべきだ」
と答えた。
すると孟子はこう問うた。
「君子が民を教導するには、仁義の教えがあるだけのはずです。なぜ利が必要なのでしょうか?」
子思はこう答えた。
「仁義とは元々利をもたらすものである。上が不仁ならば、下は居場所を得ることができず、安定できない。上が不義ならば、下は詐謀を好むようになる。これは不利の最も大きなものである。だから『易』には『利とは義の和である』とあり、また、『利によって身を安んじ、徳を弘揚せよ』と書かれているのだ。これらは利の最も大きなものである」
さて、この二人の会話に『資治通鑑』の編者・司馬光が意見を述べている。
「子思と孟子は同じことを言っている」
仁を知っている者は仁義が利になることを知っているが、不仁の者にはそれが理解できない。だから孟子は恵王に対して仁義だけを語り、子思は孟子に対して利を説うたと言うのである。
彼はこのように歴史を記す上で度々、意見を述べることがある。
さて、この孟軻の主張について簡単に述べる。
春秋時代末期において、孔子が「仁」を説いた。戦国時代に入ってから孟軻は孔子の思想を発展させて、「仁義」を説くようになった。
「仁」とは人に対する思いやりや愛情のことである。
但し儒教における「仁」とは全ての人に対する普遍的な愛ではなく、身分制度の存在を前提とした愛である。
例えば君臣、父子、夫婦等、様々な立場にいる人がそれぞれの秩序を守ったうえで抱く愛であり、自分や相手の立場によって愛情の内容も表現方法も全く異なるものになる。
例えば、臣下が国君に対して抱く「忠」、子が親に対して抱く「孝」、友人同士に必要とされる「信」といった概念も「仁」の範疇に含まれる。
儒者が説く「仁」に対して墨子等の思想家たちはその「仁」を差別愛として、代わりに身分制度を無視した愛(兼愛)を説うた。
それによって儒教は墨家に圧倒されることになった背景にはやはり、上の身分の者との区別による差別愛に多くの人々が不満を持った結果であることがわかる。
一方の「義」は人間関係において必要とされる道徳観のことで、「義理」「信義」や「忠義」といった言葉に置き換えることができる。
例えば友人間では「信義」を、臣下が国君に対しては「忠義」を守らなければならないというものである。
この「仁」と「義」を組み合わせて、「仁義」とした。簡単に言ってしまえば、本来二つ合った考え方を一つにまとめたのである。
また、孟軻の思想において特徴的なところは、君臣の上下関係において、一方的な服従を説いたわけではないことである。
つまり、彼は国君の出来が悪い場合は革命を起こして国君を換えても良いと説うたのである。周が商を滅ぼし、商が夏を滅ぼしたのはそのためであるとした。
しかし、これはあくまでも天命を受けた存在によるものでなければならないもので、私利私欲によってではいけないとしている。
彼の思想は周王室の権威が完全に失墜し、弱肉強食の風潮が更に強くなり、各国が王を名乗り始める当時の時代背景を反映している。
もう一つ、孟軻の思想の特徴的なところとして、「性善説」がある。
内容は人の本性は「善」であり、教育や社会環境によって「悪」に変わることも多いという考え方である。
この本来「善」であるはずの人の本性を守るためには、教育を重視し、「仁義」といった道徳観を養うことが必要であると、孟軻は説いたのである。
恵王の前で「利」ではなく「義」を主張したのも、「利」は人の善を悪に変える力があるのに対して、「義」は人の善を善のまま保つことができると考えたためである。
魏の宮中の部屋。
「どうでしたか。魏君は?」
「ふむ、難しいだろう。利ばかりを見て、義を見ておられない」
恵王との謁見を終えた孟軻を囲む弟子たちに彼はそう言った。
「そうですか……」
「それでもしばらくは魏にいるとしよう」
孟軻は少なくとも恵王のことをそこまで嫌ってはいない。誰にも間違えといったものはあるのである。そればかり見るのは意味がないと思うためである。
そんな時、田文は部屋の外で慌てている魏の宮中の人たちの姿を見た。
「何だろうなんか騒がしい」
田文の言葉に孟軻を始め弟子たちも部屋の外を見る。
すると廊下を歩く一団が見えた。
「あれは斉の者たちだな」
弟子の一人がそう言った。長い行列の中、高貴な姿をした者がいた。しかし、その顔はその服装に合っていないように思えた。
「斉の淳于髡だ。斉の使者として来たのか?」
しかし、田文はその後ろにいる者の方が興味を覚えた。
その者は車輪のついた椅子に座り、人に押されながら進んでいた。よく見れば、膝から足がないのが見える。また、顔には罪人の証である刺青がされていた。
だが、それらによりも強く印象的であったのは、左手に骸骨を持ってそれを撫でていることだろう。
「こ、怖い」
骸骨よりもそれを撫でながら微笑んでいるその男の方が恐ろしかった。そう魏に来る前に見た盗跖よりもその手下よりも紀昌よりも遥かに怖い存在がそこにはいた。
田文の近くを通り過ぎようとしたその時、その男はこちらに目を向けると手を挙げて、移動を止めさせた。思わず、田文は隠れようとする。
「どうされた?」
淳于髡の言葉を受けてもその男はじっと田文のことを見ていた。やがて、目を離すと、
「何でもありません。参りましょう」
「そうか」
そのまま廊下の先へと進んでいった。
「あれは?」
田文が聞くと孟軻が答えた。
「恐らくあれが孫臏であろう」
「孫臏?」
「ああ、強国と言われたこの魏をボロボロにした男だ」
「魏君に拝謁致します」
淳于髡と孫臏が恵王の前で拝礼する。
「何の用か?」
恵王の口調は強いものである。なにせ斉は魏を破ったことで強国となった。そして、それを行った男が目の前にいる。更にその男に太子を殺されている。
「いやはや、実はですなあ……」
そんな棘のある言葉を受けようとも特に気にせず、淳于髡は話す。
「我が君と共に王になりませんか?」
彼の言葉に恵王は目を見開いた。