神弓
ちょっと遊び過ぎたかなという反省はある。
紀元前336年
よく夢を見る。
その夢では、常に雨が降っている。その雨の中、寒く体が震える。そんな時、顔がおぼろげであるものの一人の男が自分を抱き抱える。そして、自分の顔を指で拭おうとした。
それはくすぐったくもあり、痛くもあった。しかし、なんの抵抗もできないためか。指が口に来たところでその指を噛んだ。
鉄の味をするのを感じながら男の顔を見る。男は何故か笑っているように見えた。
田文はそこで目を覚ました。
「また、同じ夢……」
いつも見る夢はあそこで終わってしまう。何故だろうか?
そんなことを思いながら彼は起き上がった。そして、顔を水で洗い、布で拭う。その後、ある部屋に行き挨拶を行う。
「起きたか」
「はい、先生」
部屋には先生と皆が呼ぶ人がいた。名は孟軻という。しかし、彼が自分の親ではない。彼の弟子たちの中にも親はいない。
自分は捨て子だという。そのことを孟軻は隠すことはなくはっきりと教えてくれた。
そんな時、孟軻の弟子がやって来た。田文を見ると彼の頭を撫でてから孟軻に言った。
「魏から書簡が届いております」
彼から書簡を受け取った孟軻がそれを読むとすっと立ち上がった。
「魏の国君がどうやら私をお呼びのようだ」
「行かれるのですか?」
「もちろんだ。助けを求める手を出されたならば、その手を受け取るべきであろう」
孟軻はそう言って、魏に向かうことにした。田文も手伝いとして着いて行くことにした。
その道中、森の中、弟子の人たちと共と焚き火のための薪を集めることになった。
田文は小さな腕に目一杯、薪を持った。
「これぐらいでいいでしょうか?」
共に集めている弟子の人に声をかけた。しかし、声が返ってこない。
「どうしましたか?」
田文は薪を置いて、様子を伺うと、声にならない声を上げた。
首の無いまま倒れこむ弟子の姿が見えた。そして、その胸元を探る数人の男がいたのである。
「ちっ、これぽっちかい」
少し、高い声で胸元から金の入った袋を取り出しながら男らしき者の声が聞こえた。
田文はそこを離れようとした時、小枝を踏んでしまい折れる音がした。
「誰だ」
数人の男たちがその音の先を見た。そして、弟子の遺体の傍でしゃがんでいた一人が立ち上がると、その者に傍の男たちも田文へと近づいていく。
(なんであの人、男の格好をしているのだろう)
この状況で田文はそう思った。先頭を歩くのは女性であった。しかし、服装は男性のものである。
「子供のようです。あいつの子でしょうか」
一人が男の死体を見ながらそう言った。
「関係ないね。見られたからには、子供だろうと殺すだけさ」
先頭の男装の女がそう言うと剣を抜くと一旦、くるりと回す。
「相手は子供ですぜ、お頭」
「そうです。餓鬼なんて殺すまでもないでしょう」
二人の男が彼女を止めようとするが、男装の女は鼻で笑う。
「甘い、甘いね。あんたたち。盗跖というのは、こういう小さな芽をちょんと摘んだからこそ、盗跖となったのさ」
男装の女、盗跖は笑う。
「小さなことで人は足元をすくわれるものさ。なあ、餓鬼。あんたに恨みはないが、見られたからには死んでもらうよ」
盗跖は田文に向かって、踏み込むと瞬時に彼に近づき、剣を横に振った。田文はそれを屈んだことで斬られずに済んだ。
「ちっ」
舌打ちしている隙に田文は駆け出した。しかし、彼は孟軻たちがいる方へではなく、森の奥へと逃げた。
「おい鶏鳴」
「なんだ狗盗?」
田文を追う盗跖の後を走る狗盗は鶏鳴に聞いた。
「なあ、なんであの餓鬼、森の奥へ逃げるんだ」
「さあな」
すると後ろで走る下っ端が言った。
「逆方向に旅の者たちがいたと思いますぜ」
これに二人はなるほどというように頷いた。
「偶然かもしれんがな」
「だが、もし彼等のために敢えてそうやって逃げたとすれば、幼いながら男であるな」
鶏鳴も狗盗も思う。
盗跖は悪の限りを尽くす大盗賊である。しかし、外道ではなかった。いたずらな殺しを行わない盗賊であった。しかし、三代目になるといたずらな殺しも行うようになった。
そもそも先ほどの男を襲ったところで何の利益もないことは直ぐに考えつくものだ。
「餓鬼を襲うなんて外道じゃなかったはずだったのにな」
狗盗の言葉に鶏鳴は諭すように言った。
「だが、殺す理屈は間違ってはいない。小さなことで足をすくわれてしまうのは事実だ」
「でもよう。確かに俺たちは天に顔向けできねぇことをしてきたが、人ということまで捨てているわけではないんだぜ。できればあの餓鬼は殺したくねぇよ」
「偽善だな」
彼の言葉に鶏鳴はそう言いつつも同じ意見を持っていた。
偽善であろうと、そうやって納得して生きていきたい。そう思うからである。
田文は木を利用して逃げることで、何とか盗跖から逃げていた。
「早く、もっと遠くに」
しかし、彼は必死に走るも所詮は子供である。子供の足では限界がある。
「あっ」
彼は根っこに足をとられ、転んでしまった。そこに剣が向けられる。
「くそ餓鬼。ちょこまかと逃げやがって」
盗跖は舌打ちをしながら彼に剣を刺そうとした時、田文は土を投げつけた。盗跖は目に土が入った痛みに悶えるとその隙に田文は再び、逃げ出した。
「これでなんとか……そんな……」
田文が逃げ出した先に大木が倒れていた。子供では登りきれないほどの高さがある。田文は別の道を行こうとするが、
「今度こそ終わりだ。くそ餓鬼」
後ろから盗跖がやって来た。
「全く、ここまで手がかかるとはね。でも、これでおしまい」
盗跖は強く、踏み込んで田文を斜めから切り裂こうとした。その瞬間、田文と盗跖の間を一本の矢が通過した。それに驚いた盗跖は後ろに下がると、第二の矢が右肩に刺さった。
「くっ、一体何」
矢が来た方向を見ると第三の矢が飛び込んできた。それを剣で払うが、その瞬間に第四の矢が右足に刺さった。
片膝をつく盗跖になおも第五、第六の矢がやってくる。それを何とか剣で払う盗跖。しかしながらなおも第七、第八、第九の矢と、次々と矢が打ち出されていく。
「お頭」
そこに鶏鳴と狗盗たちがやってくる。だが、その彼等にも矢が放たれていき、下っ端の連中は次々に射殺されていく。
「お頭、逃げますぜ」
「やられっぱなしで帰れるか」
鶏鳴が盗跖の肩を持つが、盗跖はそれを払う。その時、彼女の左目に矢が突き刺さった。
盗跖は絶叫するが、更に矢が来るのを狗盗が払う。
「てめぇらずらかるぞ」
鶏鳴が盗跖を抱き抱えながら手下たちと共に逃走していく。その間、狗盗が未だに放たれる矢を払っていきながら逃走した。
その光景をただただ呆然と田文は見ているだけであった。
そこに弓を持った男がやって来た。男は矢が刺さり死んでいる男たちを見ながらため息をつく。
「全員は無理だった。はあ、なんということか」
田文は彼に近づく。
「あの、ありがとうございました」
だが、お礼を言う彼に男は気づかない。
「はあ、自分の腕の無さに辟易する。はあ、これじゃあ駄目だ。はあ、全く自分の駄目加減が嫌になる」
何度も何度もため息をつきながら、矢を回収していく。
「あの」
田文がまた、声をかける。すると男は彼にやっと気づいた。
「誰だ。君は?」
(あっ助けたわけではないんだ)
田文は男の言葉からそのことに気づきながらもお礼を言う。
「田文と言います。危ないところを助けていただきありがとうございました」
「何のことだろうか。はあ、まあいいけど。はあ、何て駄目なんだろう」
男は相変わらず、ため息をつきながら矢を回収終えるとそのままどこぞへと去っていってしまった。田文はそのことにため息をついた。
その後、田文は森の中を彷徨いながらも孟軻たちと合流することができた。
そして、焚き火のための薪を集めている最中に、盗跖を名乗る盗賊たちに襲われ、一緒にいた人が殺されてしまったこと、彼等に追いかけられて、追い詰められたその時に、弓を持った男の人に助けてもらったことを話した。
「そうか盗跖に襲われたのか。昔は金持ちの家を狙う連中だったのだが……彼等が悪を行うのは学問を学ばなかったからだ。人の本質は善なのだからな」
(善……確かにあの時、自分を殺すことを止めていた人たちがいた。でも……)
だからと言って彼等が自分を救ってくれたわけではない。
(あの盗跖という人が善と言われても信じきれない。でも、先生が言っていることだし……)
田文は命を本気で狙われたために孟軻の言葉を全面的に信じることができなかった。
「あと、助けてくれた弓の男というのは、神弓の紀昌であろう」
「紀昌」
「ああ、趙の邯鄲の人だと聞いている。様々な国で仕官を求められたが、弓術の探求のために尽く断っているというそうだ」
紀昌は自分を助けてくれた人である。だからと言って、紀昌も善かと言えば首を傾げたくなる。なぜなら彼は自分を助けようとしてくれたわけではないのである。
ただただ偶然、助かったに過ぎない。そこに善も悪もなかったのである。
(善ってなんだろう。悪ってなんだろう)
田文はそんなことを旅の中、考え続けた。そして、孟軻一行は魏の都にたどり着いた。




