本懐
紀元前338年
趙良という者が商鞅に会った時、彼はこう聞いた。
「あなたは私が秦を治めるのを見て、五羖大夫(百里奚)とどちらが賢人だと思いますか?」
趙良はこう答えた。
「千人が声をそろえて賛同することよりも、一人が厳しく諫める方が価値あると言います。私が正言を述べても誅殺しないと約束していただけますか?」
商鞅は、
「約束しよう」
と答えたため、趙良は言った。
「五羖大夫は荊(楚)の鄙人(農夫)でございましたが、穆公が牛口の下から抜擢して百姓の上に置き、秦には敢えて彼と対等になろうとする者がいなくなったそうです。秦の相となって六、七年の間に東は鄭を討伐し、三回晋君(恵公。懐公。文公)を置き、一度は荊禍から救いました(「荊禍」は「楚の禍」という意味。晋は城濮で楚に大勝してから、崤で秦を破った。そのため秦は楚と講和した。楚の禍から救ったというのは楚との講和を指す)。五羖大夫が相を勤めていた時は、疲労しようとも車に乗らず、暑くても蓋(傘)を立てることはありませんでした。国中を巡行する時は車乗を随行させず、干戈(武器)も携行しませんでした。五羖大夫が死ぬと国中の男女が涙を流し、童子は謡(歌)を歌わず、舂者(臼を打つ者)も掛け声をかけなくなったものです」
趙良はそう言ってからこう続けた。
「しかしながら今のあなた様の行動を見ると、まず嬖人(国君の寵臣)・景監を頼りとされ、政治を行うようになってからは公族を虐げ、百姓を傷つけております。公子・虔は門を閉ざして外出することがなくなり、既に八年が過ぎました。しかも祝懽を殺し、公孫賈を黥(入墨の刑)に処しました。『詩(逸詩)』にはこうあります。『人を得た者は興り、人を失った者は崩れる』あなたがしてきた事は人を得るための行いではございません」
と非難を行ってから次に百里奚との比較を行った。
「また、あなた様が外出する際は後ろに車が従い、自分の車にも甲士を乗せ、多力で騈脅(強壮)な者が驂乗(馬車に同乗する士)となり、力士が矛を持って車を守りながら走っております。これらの守備の一つでも欠ければ、あなた様は外出しようとはしません。『書(逸書)』にはこうあります『徳に頼る者は隆盛し、力に頼る者は滅亡する』あなた様がしてきた事は徳に頼っている行いではございません。あなたの危険な状況は朝露(はかない物)のようなものと同じです。それにも関わらず、未だに商於の富を貪り、秦の政を独占することを寵(栄誉)と考え、百姓の怨を蓄えております。秦君が一旦賓客を捨てて(身分の高い者が死ぬこと)朝廷に立たなくなれば、秦であなたを捕らえようとする者は少なくないでしょう」
彼の言葉を受けて、処罰することはなかったが、商鞅はこれを聞き入れることはなかった。
「まだまだやることがあるのだ」
彼はそう呟いた。
秦は魏と岸門で戦った。秦軍は魏の将・魏錯を捕虜にするという大勝上げた。
その勢いのまま秦の蘇胡が韓を攻めたが、韓襄が秦の蘇胡を酸水で返り討ちにした。以前にも秦を打ち破ったことのある男である。どうにも秦とは相性が良いようである。
しかしながらそれでも秦の勢いは未だ衰えることはなかった……かに見えた。
秦の孝公が世を去ってしまったのである。
孝公の死によって商鞅の地位が揺らいでしまったのである。
孝公の後、秦の恵文王が即位した。彼がまだ、太子だった頃、罪を犯した時に師を商鞅に誅殺されてしまったことを未だに怨んでいた。
その他の公族も既存の権益を奪われたことにより、商鞅を憎んでいた。そこで公子・虔の徒衆が商鞅の謀反を訴え、官吏を送って逮捕しようとした。
商鞅は慌てて都から逃亡し、途中で宿に泊まろうとした。宿の亭主が言った。
「商鞅様の厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっておりますので、お泊めすることはできません」
商鞅は天を仰ぎ、
「ああ、法律を作り徹底させたためにこんな結果をもたらすとは……」
と嘆息した。そのまま宿を出ると、
「滑稽なことだ」
髪の長い男が言う。
「己の法によって己の首を絞めるとは、なんと滑稽なことだろうか」
商鞅は彼のことを見たことがあった。秦に入る時に、
『あなたは西に行き、栄光を得るだろう。されど、最後は自らの業に喰われることだろう』
その時、自分はこう答えた。
『己の業に喰らわれて死ぬのは、男の本懐ではないか』
商鞅はからからと笑った。
「己の業に喰らわれるか……ふっふふふ、我が業は己を喰らって完成するのだ」
彼は髪の長い男の方を向くと言った。
「あなたのおかげで気づくことができた。感謝する」
商鞅は笑いながら去っていった。髪の長い男、荘周は呟いた。
「人とはつくづく度し難い」
その後、商鞅は魏に奔った。だが、国境で魏人に拒否されてしまい再び秦に戻った。
二年前に商鞅が詐術で魏軍を破ったことに魏人たちは商鞅を深く怨んでいたのである。
商鞅は自分の徒衆を連れて商於を拠点とし、北の鄭県を攻撃した。
しかし秦は商鞅を攻めてこれを撃破した。
「お命頂戴する」
秦兵が商鞅を囲み、そう言った。
「ここで殺せとお命じになったのか?」
「はい」
商鞅はにやりと笑い言った。
「国君にこう申されよ。まだまだ甘いですなと」
彼は斬られた。その後、彼の言葉が恵文王に伝えられた。
「甘いだと、良かろう。天涯で見ておけ」
恵文王は商鞅の遺体を見せしめとして車裂の刑を行い、商鞅の家族も皆殺しにした。
商鞅は処刑した恵文王であったが、彼が実施した変法改革の成果は継承した。殺しておいて、彼の功績を奪ったのである。戦国時代において、最も冷酷な国君と言えよう。
しかし、彼のその選択と創造主をも喰らった法によって秦は更に大きく強大となっていくことになる。




