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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第二章 諸子百家鳴動
33/186

捨て子

遅れました

 雨が降る中、女性が泣きながら歩いていた。彼女は赤子を抱き抱えていた。


「ごめんね。ごめんね」


 彼女は泣きながらそう言って、道に赤子を置いた。


「天よ。どうかこの子を拾ってくださる心優しき方を」


 女性は天に願いながらもその場を離れていった。


 赤子はその間、特に声を上げることはなく、雨の中を過ごす。そんな時、雨に打たれるのを気にしていないのか笠をかぶることはなく、髪の長い男が歩いてきた。荘周そうしゅうである。


 赤子はその男が通り過ぎようとしている時、声を上げた。その声に気づいた荘周は赤子に近づく。


「捨て子か……」


 彼は屈んで赤子に顔を近づける。赤子は明らかに弱っており、先ほどの声のような声は出せていなかった。


「赤子よ。お前は生きたいと思うか?」


 赤子が包まれている布は明らかに貴族が所有しているものである。恐らく身分の低い妾が産んだのを処分する目的で捨てたのだろう。


「どうせ生きたところで何になる。よほど苦しい思いをして生きるよりはこのまま世を去る方が良いのではないか?」


 荘周は赤子の目元を撫でようとした時、彼の指に痛みが走った。赤子が彼の指を噛んだのである。噛まれた指からは血が流れた。荘周は笑った。


「気の強い子よ。そうか、この混沌の世に生きたいと思うか」


 彼は赤子を抱き抱えた。その時、布に文字が書かれているのが見えた。


田文でんぶん。それがお前の名か」


 荘周は赤子、田文を抱き抱えながら顎に手を当てた。


「しかし、私は子を育てるような手段も能力もない」


 彼は頭の中でこの田文を預けるべき場所を、人を探した。

 

盗跖とうせきは駄目だな」


 因みに今の盗跖は三代目にあたる人物である。


「ならば、あとはあそこか」


 荘周は嫌な表情を浮かべながらも彼は歩き出した。









 荘周はある屋敷の戸を叩いた。案内の者が出てきて、中に案内された。


「先生は来るものは拒まない方です」


 案内の者がそう言う中、荘周は鼻で笑いながらついていく。そして、部屋の中に入った。部屋の中には一人の男が書を読んでいた。


「先生、お客様です」


 その言葉を受け、男が振り向き、荘周を見ると露骨に嫌な顔をした。


 案内の者は珍しい表情を浮かべられると思いながら、部屋から出ていった。


「弟子が珍しいものを見たという表情を浮かべておったな」


 荘周は笑いながら座った。


「何しに来た。魑魅魍魎めが」


 男が吐き捨てるように言った。


「ついには人ですらなくなるのか私は……」


 荘周は肩をすくませる。荘周と男が犬猿の中と言うべきであり、男は荘周のことを魑魅魍魎の類だと思っている。


「お前とそんなことを言い合うために来たわけではない。なあ孟軻もうかよ」


 孟軻、字は子輿しよという。後世においては孟子もうしと呼ばれる方が一般的である。孔子こうしの後、衰退した儒教を立て直したため、聖人を亜ぐ者、亜聖の称号が与えられた男である。


 彼の母も有名で、このような逸話がある。


 孟軻が幼い頃、家の近くに墓地があった。すると孟軻は葬式の真似事をして遊ぶようになった。彼の母はそれを見て、


「ここはこの子のためにいるべき場所ではないわ」


 と言って、引っ越した。すると近くに市場があり、孟軻は商人の真似事をするようになった。


「ここもこの子に良くないわ」


 そう言って、母はまたしても引っ越した。今度は学校の近くに住み着いた。すると孟軻はそこの学生の真似事をして、礼儀作法などを身に付け始めた。


「ここなら良いでしょう」


 母はここに落ち着けることにした。


 勉学を行う上では環境も大事という逸話だが、こうも引越しを繰り返していることを思うと、よほど彼は金持ちの家の出身のようである。


 また、このような話しもある。


 実は孟軻は孔子の孫である子思ししの門人の元で学問に励んでいたのだが、ある時、サボったことがあった。


 ちょうどその時、孟軻の母は機織りをしていた。母が彼に訪ねた。


「学業は如何ですか?」


 すると孟軻は、


「ぼちぼちです」


 と答えた。その時、母は刃物を取り出し、織物を切り裂いた。驚く孟軻に母は言った。


「あなたが学問をサボってのは、私がこの織物を断つようなものです。そもそも君子というのは、学び、それを持って名を立て、問いただして知識を広めるものです。これにより、仕官せずに家にいるときは安らかで、仕官して活動するときは災難から遠ざかるのです。今、学問をサボってしまえば、召使いになることを免れず、災いから遠ざかることもありません。どうして、布を織ったり糸を紡いだりして生計を立てているのに、それを途中で止めて完成させないことがあるでしょうか。どうして、夫や子どもに服を着せ、いつまでも食料を乏しくさせないことができるでしょうか。女が生計を立てること止め、男が徳を修めることを怠れば、盗みをしないのでなければ、召使いとなるだけですよ」


 この頃にはどうにも以前ほどの金は無くなっていたようである。


 孟軻は反省し、以後、サボることなく学問に打ち込んだのであった。








「それで何のようだ」


「ああ、これだ」


 荘周は赤子を突き出した。


「ついにそこまで落ちたか」


「何を勘違いしている。そもそも私をなんだと思っているのか」


 孟軻は荘周に対しては、恐ろしいほどに嫌悪感を抱く。


「この赤ん坊は道端で捨てられていたのを拾ったのだ。どうにも貴族の出身のようで、名は田文というそうだ」


「ほう、それで私にその赤ん坊を見せて、どうしろと?」


「育ててくれ」


 孟軻は怪訝そうな顔をする。


「お前ならば、例え捨てられていても平気で見捨てそうな気がするのだがな」


 事実、荘周はそうしようとした。


「ふん何、田文が私の指を噛んだのだ。生きたいという強い思いがあるからだ」


 荘周はすやすやと眠る田文を見る。その表情に孟軻は意外そうな表情を浮かべながらも言った。


「良かろう。その赤ん坊は私が預かろう。確か弟子の中に子を亡くしたばかりの者がいたはずだしな」


「任せる。ではな」


 孟軻の言葉に荘周は立ち去ろうとする。


「お前自身で育てようとは思わんのか?」


「私に子を育てるような能力はない。それに一人気のまま旅をするのが良いのさ」


 彼の言葉に孟軻は鼻で笑う。


「法螺を吹き歩くだけであろう」


「そうとも言うかもしれんな」


 今度こそ、荘周は彼の元から立ち去った。


(もう二度と会うことはないだろうな)


「さて、秦にでも行くとするか」


 荘周はそう言って、秦に向かった。だが、彼が思っていたのとは違い、田文とは何度か邂逅することになる。













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