孫臏
馬陵の戦いで龐涓の軍を破った斉軍は朝を迎えた。
田忌と孫臏の元に龐涓の首が届けられた。その龐涓の首を近づくように孫臏は指示した。そして、その首を包むように手に取った。
「やあ、龐涓。久しぶりだねぇ」
彼は笑いながら龐涓の髪を撫でた。
「報告します。魏軍がこちらに接近しています」
「魏の太子の軍か」
田忌がそう言うと孫臏は龐涓の首を撫でながら頷く。
「ええ、では勝つとしましょう」
馬陵の戦いにおいて、魏軍は太子・申と龐涓の二手に分かれて、斉軍を挟撃するという策を行って斉軍を破るという作戦を立てていた。
しかしながら結果は挟撃にならず、龐涓の軍は壊滅させられて一方の太子・申の軍は翌日に馬陵に着いている。
何故、このようなことになったのかと言えば、途中で太子・申の軍は一度、進軍を止めた時があったためである。
太子・申の軍が馬陵に向かっていると同行していた徐子という男が進言した。
「私には百戦百勝の術がございます」
そんなことを言い出したことに興味を覚えた太子・申が、
「それを聞くことができるか?」
と問うと、徐子は、
「もとよりそのつもりです」
と答えてから、こう続けた。
「今回、太子が自ら将となって斉を攻め、大勝して莒の地(斉の東南)まで占領したとしても、太子の富は魏の国を有するにすぎず、貴(位)は国君になるしかございません。しかしながらもし、逆に斉に負けるなどあれば、万世の子孫が魏を有することもできなくなります。これが私の百戦百勝の術です」
太子・申は既に太子という高い身分であり、勝ったとしても将来、魏の主になるだけである。しかしここで負けるようなことがあれば、太子の位を失うことになる。
戦わなくてもいずれ魏の主になれるにも関わらず、負ければ全てを失う戦に出るべきではないという進言である。
太子・申はそのとおりだと思い、
「わかった。あなたの言に従って兵を還すことにしよう」
と応えたが、徐子は首を振った。
「太子が還りたいと思っても恐らく無理でしょう。太子に戦攻を勧めてうまい汁を吸おうとしている者が大勢いるからです。太子は還りたくても還ることができません」
それでも太子・申は帰国しようとした。しかし御者が諫めた。
「将として国を出陣したにも関わらず、何もせず還ってしまえば、敗北したのと同じことでございます」
このように帰国しようとする太子・申を周りが止めるという状況が生まれた。これによって、太子・申の軍は進軍を止めたのである。
これが太子・申が挟撃に遅れてしまった理由である。
「まだ、魏軍は別働隊の壊滅を知らないのだろうか?」
田忌がそう問いかけると孫臏は首を振った。
「いいえ、彼等は知っているでしょう。まあそう知らせるようにしていますしね」
彼は言う。
「それにここまで来て、戦わないを選べば、魏軍の威信は大いに揺らぐようになります。それを選べるほど太子という座は重すぎますからねぇ」
太子が戦場から逃げる。それは太子自身の自尊心や側近たちにとってもあってはならないものであると考えているはずだろう。
「だから困るのですよね。偉い人が戦場に出てくるというものは」
孫臏は鼻で笑うようにそういった。
「よく言う。そう仕向けたのはお前だろ」
田忌の言葉に彼はにやりと笑う。
「ええ、我が斉軍が今回の戦で最も恐れたのは、魏軍が我らの相手をしないということでした」
今回の戦において魏は最初から失敗していた。本来であれば、韓を攻略まで後一歩まで行っていたのだから時間稼ぎに徹し、城に立て篭るべきであった。
「そうならないために太子の出陣が必要だったのです」
国の太子が出陣するということはそのような防衛戦を行うような戦をしないという意思表示でもある。そんな戦を太子がすれば、信望を得ることはできないものだからである。
特に上層部が戦で二流、三流の類の者たちのみであれば、なおさらである。
「もし太子が城に篭るような真似をすればお前はどうする?」
田忌の言葉に孫臏は戯るように言った。
「その時は大いに相手を称えることでしょう。こう手を叩くようにね」
彼は手を叩く真似をしながら続けていう。
「その後に周辺の邑を荒らしていくことでしょう。それでも出てこなければ、そのまま包囲するだけですね」
包囲の最中に荒らした邑の人々の首を晒しながらねと一言加えながらそう言った。
「なるほどな。まあ太子・申の軍はそうすることはなかったわけだ。それでこのまま正面からぶつかるのか?」
「ええ、このまま正面からぶつかっても勝利できましょう。既にこちらの方が地の利はありますしね」
こうして魏軍と斉軍はぶつかった。その時、魏軍の後方で火が上がった。徐子とその配下の者たちによるものである。
「なるほど、あれがお前の仕込みか」
「はい、挟撃策を失敗させるために進軍速度を落とさせる必要がありましたので」
徐子は太子・申に百戦百勝の策として帰国を勧めたが、明らかに進軍途中で進言するような内容ではない。そうこれは孫臏の手の者であったのである。
孫臏の策の恐ろしいところは、相手が優秀であることをも計算に入れていることである。だが、彼はそのことを指摘されれば、こう答えるだろう。
「私は相手を信じただけである」
と、彼は龐涓が桂陵の戦いの失敗を踏まえて、騎兵を率いてくれることを、挟撃を策を提案し、実行してくれることを、太子・申が徐子の言葉に利があると判断してくれることを、彼はそれらを信じた。信じて策を作った。
「田忌殿」
「ああ、行ってくる」
田忌は騎兵を率いて、混乱する魏軍の側面に突撃を仕掛けた。そして、そのまま魏軍を蹂躙するように進んだ。
これに合わせるように斉軍も一気呵成に魏軍に襲いかかった。
混乱している中では、まともに斉軍と戦うことができず、魏軍は敗北し、逃走し始めた。だが、孫臏は逃走を許さず、徹底的に追撃を仕掛けた。
その結果、魏軍は壊滅し、魏の太子・申は戦死するという大敗北を喫することとなった。
斉に馬陵の戦いでの戦勝が伝えられると、斉は歓声に沸いた。そんな中、一人難しい顔をするのは、斉の宰相・鄒忌である。
「やりすぎだ」
彼は馬陵の戦いでの勝利のことを言っているわけではなく、そこで魏の太子・申を殺したことを言っているのである。
「これでは魏との関係は難しいものとなってしまう」
彼は魏が必要以上に弱体化してしまうことを望んではいなかった。しかし、今回の戦でこの結果である。もはや魏はかつてのような強国ではなくなるのは良いとしても次代の国君を殺したのは感情的にまずい。
「田忌め」
鄒忌は忌々しいそうにそう言うとある者に十金を持たせて市で卜をさせた。その者が卜いを施す者にこう言った。
「私は田忌の部下である。田忌は『私は三戦三勝したから大事を行いたいと思うが、可能だろうか』と言って私に卜いをさせるように命じたのである」
その後に鄒忌はその者を捕らえ、田忌の謀反を糾弾した。
斉の威王はこれを信じなかったものの、群臣の多くが鄒忌に同調して、田忌を糾弾したため、彼等の意見を聞き入れることにした。
このことを孫臏は間者を通して知った。そのため彼は田忌に言った。
「将軍は大事を成すことができますか?」
田忌が、
「どういう意味か?」
と聞き返すと、彼は鄒忌による糾弾の件を話して言った。
「田忌殿は武装を解かずに斉へ向かうべきです。まず、魏との戦いで疲弊した老弱の兵に主(要地)を守らせ、主(要地)とは車一輌の轍しか通れない道です。もし二輌の車が並進しようとすれば、車輪がぶつかってしまいます。このような場所なら、疲弊した老弱の兵でも一人が十人に値し、十人が千人に値します。その後、太山を背に、済水を左に、天唐(不明)を右にして軍を高宛まで還し、軽車精騎で雍門(斉都の西門)を衝けば、斉君を得て、鄒忌を走らせることができましょう。逆にそうしなければ、あなたは斉に入ることはできません」
「それは……できぬ。武人のやるべきことではない」
田忌は彼の進言に従わなかった。
「孫臏よ。汝とともに戦ができたのは楽しかった。私は出奔する」
孫臏は首を振った。
「もったいないことを」
「主公に矛を向けるなどできんのだ。お前は戦勝を報告せよ」
彼の言葉に孫臏は拝礼した。
「承知しました。では、ここで」
「ああ」
こうして田忌は楚に亡命した。
鄒忌はそのことを知っても安心せず、楚に兵を借りて攻め込まないように手を打つことにした。
そこに杜赫が鄒忌に言った。
「私が田忌を楚に留めさせましょう」
彼の言葉を信じて、鄒忌は楚に向かわせた。
杜赫は楚に赴いて楚の宣王にこう言った。
「鄒忌が楚との関係を改善しようとしないのは、田忌が楚の力を借りて斉に帰ることを恐れているからです。王は田忌に江南の地を封じ、斉に帰らせるつもりがないことを示すべきでございます。そうすれば、鄒忌は国を挙げて楚に従いましょう。また、田忌は亡人(亡命者)ですので、封地を得れば、必ずや王を徳とします(感謝します)、もし今後、斉に帰ったとしても、やはり国を挙げて楚に従うでしょう。これが二忌を利用する道です」
宣王は彼の言葉を受け、田忌に江南の地を与えた。
「徹底しているねぇ」
孫臏はそう呟いた。