馬陵の戦い
大変遅くなりました。
紀元前341年
昨年、韓を攻めた魏であったが、結果は敗北という形に終わった。
しかし、魏の恵王はその結果に納得することはなく再び、韓への侵攻を計画し、龐涓に韓を攻撃させた。
韓は斉に救援を求めた。
斉の威王はこれを受け、大臣を招集した。威王は彼等に向かって言った。
「速く援けに行くべきか、遅く援けに行くべきか?」
救援することは彼の中で決定している。しかし、その時期に関して彼等に問うたのである。
宰相の鄒忌が言った。
「援けるべきではありません」
彼は韓を救援するために魏を攻撃するべきではないと考えていた。これに田忌が反対した。
「我々が援けに行かなければ、韓は滅び、魏に呑み込まれてしまうことになる。速く援けに行くべきだ」
昔から対立している二人は互いに睨みつけ合う。
「孫臏はどう思うか?」
威王が孫臏に問いかけると彼は言った。
「韓と魏の兵がまだ疲弊していないにも関わらず、韓を援けに行けば、我々が韓に替わって魏の兵を受けることになり、逆に韓の命を聴く立場になってしまいます。魏には韓を滅ぼす野心がありますので、魏の猛攻が続き、国家が滅亡に瀕すれば、必ずや韓は改めて東面して斉に危急を訴えることでしょう。その時に援ければ、韓との親(親密な関係)を深くし、しかも疲弊した魏につけいることができます。これが重利と尊名を得る計でございます」
威王は彼の策に同意し、魏に知られないように韓の使者と出兵を約束して帰らせることにした。続いて孫臏が進言した。
「韓の使者に淳于髠殿に同行させてください」
これに淳于髠が、
「また、私が行くのか」
という言葉を孫臏は無視しながら彼に書簡を渡した。
「これを韓の宰相に私てください。ここに書いてある通りにすれば韓は滅亡せずに済みますと言っておいてください」
「君は本当に人使いが荒いと思うよ」
淳于髠がやれやれとばかりに書簡を受け取ると、孫臏はにっこりとしながら言った。
「あなた様だからこそ頼めるのです」
こうして淳于髠は韓に向かった。そして、韓の宰相・申不害に孫臏の書簡を渡した。それを読んだ申不害は難しい表情を浮かべながらも書簡を閉じ、言った。
「同意したとお伝えください」
「必ずやお伝えします」
淳于髠が退室しようとすると申不害は言った。
「この書簡を書いた通りに事が進めば、私はあなたを神と呼びたくなるともお伝えください」
淳于髠は拝礼して答えた。
「あと、この書簡に書いてあったのだが、あなたに魏へ行くようにと書いてある」
申不害の言葉に淳于髠は唖然とした表情を浮かべた後、諦めたように言った。
「なんて人使いの荒い方だろう。孫臏殿は……」
彼は退室し、魏に向かった。
「韓軍の様子が変わった」
韓を攻めている龐涓は対峙する韓軍の様子を見ながら呟いた。
「韓軍の将でも変わったのか?」
それほどに韓軍の動きが変わったのである。それまでは魏軍が圧倒していたのだが、今は韓軍が驚異の粘りを見せて、上手く攻め込めていない。その時、韓軍の右手を自軍が崩した。
「良し、このまま攻め込め」
彼は一気に攻め込むように命じて、韓軍を破ったが、すぐ先で韓軍は陣形を整え対峙したため、進めなくなった。
一方、韓軍の陣地。
率いる将は宰相の申不害となっていた。彼は書簡を見ながら兵に指示を出していた。
「ここで三日間耐えること。敵は先ほど崩した右手から崩そうとするため、そこに強兵を置くように。それで難しいと思った敵軍は後方を乱そうとするため、後方に罠を仕掛けること」
彼は書簡に書かれていることを言いながらそのとおりに軍を動かした。
こうして韓は五回に渡って、敗れながらも魏からの攻撃に耐えていた。そして、ついに斉に使者を出した。
孫臏は目の前にある駒の配置を変えていく。
「何をしているのだ?」
それを見ていた田忌が問いかける。
「今の韓軍と魏軍の陣地を作っているのです」
孫臏は駒を置き終えたようで、彼の方を向いた。
「今、戦場をこうなっていると思います。まあ書簡通りに申不害殿がやってくれればという前提ではありますがね」
彼はそう言いながらも、微笑む。
「ですが、もうすぐ韓の使者が来て、援軍を求められることは確実でしょう。田忌殿、準備を」
「あいわかった」
韓は再び斉に国運を託す使者を送った。
ついに田忌、田嬰、田盼が将に、孫臏が師となり、出陣した。
「このまま韓に向かうか?」
田忌の言葉に孫臏は首を振った。
「いいえ、このまま魏へ進んでください」
「あいわかった」
斉軍は韓に向かわず、直接、魏都に向かった。
魏都・安邑では多数の兵が動員され、この兵を率いる総大将に太子・申が選ばれ、斉軍と対することになった。
「これで魏での仕事は終わったな」
淳于髠はそれを見送りながら安堵した。彼は魏で太子・申が総大将に選ばれるように工作したのである。
「『太子に功績を立てさせては』などという言葉で行けるとはなあ」
彼はそう思いながら茶を飲んだ。
「太子が出撃されただと?」
斉が魏に攻め込まれ、それに対して太子・申が出陣したという報告を受けた龐涓は驚いた。彼は太子とは親しく、彼の側近に近い立場であった。太子・申は恵王に寵愛されており、次の魏の国君になることは決定しているようなものであった。
つまり、彼は次代の魏において宰相になることも夢ではなかった。そんな彼への寵愛が太子が出陣するということになったのであろう。
「だが、相手は孫臏であろう。敗北を喫するかもしれん」
あの男は危険である。太子の身を守らねばならない。そう考えた彼はかつての失敗を繰り返さないために騎兵を率いて、太子・申の軍に合流することにした。
「韓を攻めていた軍の一部が合流したことで魏軍の兵数は増えた。ただでさえ大軍であるというのにだ」
田忌の言葉に孫臏は言った。
「ええ、兵数ではあっちが上ですね。そのためにも策が必要になります」
彼は笑いながら言った。
「三晋の兵はかねてから悍勇で知られており、斉を軽視しております。そのため斉は怯(臆病)と号されているのです。戦を善くする者は形勢によって利を導くものです。『兵法(孫子の兵法)』には『百里を駆けて利を求める者は上将を失い、五十里を駆けて利を求める者は軍の半分しか到着できないものだ』とあります」
孫臏は続けて策の詳しい内容を話した。
斉軍が魏領に入った初日、露営地に十万の竈が作られた。しかし翌日は五万、三日目は二万の竈に減らされていた。
魏に戻り、太子・申の軍と合流した龐涓は斉軍のその三日間の様子を知り、竈が減っていくのを確認すると龐涓は言った。
「私は以前から斉軍の怯(臆病)を知っております。我が地に入って三日しか経っていないのに、逃亡する士卒が半数を超えているまさしく斉軍の怯と言えましょう」
「つまり、これは斉軍が我らに怯えているということだな」
太子・申がそう言うと龐涓は言った。
「しかし、これはそう見せかけた罠です」
「罠?」
「はい。斉軍は策を好みます。そのためわざと我々に怯えているように見せて、罠に引き込もうとしているのです」
龐涓は地図を出して言った。
「私が斉軍の将ならば、ここ馬陵に伏兵を置きます。馬陵の道は狭く、険隘な地形に囲まれているため、伏兵を置くのに適しているのです」
「ふむ。だが、ここから我らはどう動く?」
太子・申がそう言うと彼は言った。
「私は二手に別れ、挟撃することを進言します」
「挟撃か。私はこのまま兵力で圧倒するべきだと思うが」
「先ほど言ったとおり、ここは道が狭い土地となっております。そのため大軍であることを生かすのは難しいと言えます。そこで私が軽装の騎兵を率い、ここの後方を狙い。太子は正面から襲っていただきたいのです」
彼は地図で太子・申の進軍する道を示す。
「なるほど、罠があるであろう馬陵を挟んでしまおうというわけか」
太子・申は策に同意した。
「では、私は騎兵で率いて参ります」
龐涓は騎兵だけを率いて出陣した。
「やっぱりそう動いたね。ちゃんと騎兵も率いている」
くすくす笑う孫臏に田忌は言った。
「だが、この狭いところで挟撃されてしまうぞ」
「大丈夫です。既に魏の太子の方には策を巡らしておりますので」
彼は上を見上げて、太陽を見た。
「数日後の日が暮れた頃に龐涓は馬陵に着くでしょう。準備を始めましょう」
斉軍は孫臏の指示に合わせて配置されていく。そんな中、孫臏は馬陵道にある大樹の近くに来るとその大樹皮を削った。
「何をするのだ?」
何かの策かと思いつつ田忌は言った。
「ちょっとした遊び心というやつです」
孫臏はそう言いながら皮が剥がされて白い幹となったところに、
「龐涓はこの樹の下で死ぬ」
と書かせた。
次に彼は斉軍で射術が得意な者を選び、万弩を道の両側に伏せるように命じた。そして、弩兵達に、
「日が暮れてから火が挙がるのを見れば、一斉に矢を放て」
と命じた。
夜、龐涓の軍が馬陵道に入った。
「太子の軍はまだ着いていないのか?」
彼は前方に何もなく、何の音もしないため、太子の軍はまだ、ここにこれていないと思った。
「将軍、何か木に文字のようなものが書かれています」
兵の報告を受けて、龐涓は大樹が削られて白い幹に何かが書かれているのを見つけた。
「これでは見つけられないか」
辺りが暗く、文字が見えないため火を灯すように兵に命じた。そして、火が灯り、明るくなった。
「やっと読めるな」
そういった瞬間、万弩が一斉に放たれた。
「どういうことだ」
無数の矢がこちらに降ってくる。本来、こういう時は盾で防ぐものだが、速く移動するためにそれを持ってきてはいなかった。そのため魏軍の兵たちは次々と倒れていく。
「なんということか。太子の軍はまだ、つかないのか」
龐涓は必死に矢を払いながら、兵をどうにかまとめようとするが、次々と放たれる矢が肩や足に刺さっていく。
倒れこむ龐涓だが、それでもどうにか立ち上がり、軍を立て直そうとする。そこに一本の矢が彼の額を貫いた。
「孫臏……お前の策か……おのれ……」
彼は倒れこみ、そのまま立ち上がることはなかった。魏の次代を担う男は世を去った。遺体となった彼の元に無数の矢が射られていき、針鼠と化した。
次々と魏の兵が死んでいく姿や龐涓の死に様を遠くから見ながら孫臏は目を細め、口角を上げる。
「ああ、やっとあの絵の通りになったよ」
彼は念願が叶ったような思いで体を震わした。