第二次変法
韓の昭公が申不害を宰相に任命した。
申不害は元々鄭がまだ会った頃は賎臣(身分が低い臣)であったが、黄老(黄帝と老子)や刑名(法家)の書を学び、昭公に遊説した結果、信任されて宰相になった。
法家を学んだとはいえ、魏の李悝や秦の公孫鞅とはこれまた違うやり方をとっている。
申不害は「法」を重視するだけでなく、「術」の重要さを説いた。「術」とは実に抽象的で実感の湧かない言葉だが、一般的には、臣下や民衆を統制するための「術数」「術策」のことである。
「法」は国民に公開して遵守させる具体的な決まりのことである。それを徹底させるためには、目に見えない「術」を用いて民を治め、力によって「法」を行わせなければならない。というのが申不害の主張である。
申不害の思想は後に法家の思想を大成させる韓非子に大きな影響を与えることになる。
彼は国内では政敎を修め、国外では諸侯とうまく接した。韓は戦国七雄の中で最も弱小な国であったものの、十五年後に彼が死ぬまで、国が治まり強兵を保つことができた。
申不害と彼と登用した昭公にはこういう逸話がある。
かつて、申不害が従兄の仕官を求めたことがあったが、昭公はこれを認めなかった。
申不害が怨色を表したため、昭公がこう言って諭した。
「汝に教えを請うているのは国を治めたいからである。汝の願いを聞いて汝の術(方策。教え)を廃すべきであろうか、それとも汝の術を行って汝の願いを廃すべきであろうか。汝はかつて私に功労を重視してその大小によって賞するように教えた。しかし今、汝は私情によって要求している。私はどの教えに従えばいいのだろうか?」
申不害は辟舍(自分の家から離れること。正室、寝室に寝泊まりしないこと。謝罪の意味を表す)して謝罪し、
「主公は真に賢人でございます」
と言った。
また、こういう話しもある。昭公の所有物に古くて痛んだ袴があった。彼はそれをしまっておくように命じた。
侍者がそれに対して言った。
「国君は仁者とは言えないでしょう。傷んだ袴すら左右の者に下賜せず、しまっておくとは」
昭公はこう答えた。
「明主は一嚬(眉間に皺を寄せること)一咲(笑うこと)を大切にするものである。嚬には嚬の理由があり、咲には咲の理由があるものだ。この袴に嚬咲があるというのか。功がある者が現れるのを待たなければならない」
明主というのは一挙一動を大切にしており、行動の全てに理由があるものである。今、この痛んだ袴を下賜する理由があるというのかということである。
紀元前350年
趙の成公が世を去った。
公子・緤と太子・語が位を争った。公子・緤は敗れて韓に出奔した。こうして太子・語が即位することになった。これを趙の粛公という。
秦の公孫鞅の指揮の元、咸陽に冀闕・宮庭(宮門・宮殿)が築かれた。そして、咸陽を秦の国都とした。
次に公孫鞅は新たな法改正を断行した。
まず、父子や兄弟が同室に雑居することを禁止した。
中原では人倫や長幼の礼によって父子や兄弟の家族が同じ部屋に住むことは忌避されていた。しかし、秦には西戎の習俗が残っていたために複数の家族が雑居し、男女や長幼の秩序が欠けていた。そこで彼は世帯ごとに分居するように命じたのである。
また、小郷聚(村落。比較的大きい村落は「郷」、小さい村落は「聚」)を合併して県とし、県には令、丞(「丞」は副の意味)という官員を置いた。
秦は三十一県に分けられた。
更に井田制を廃止して農地の制限を解き、広く開墾を奨励した。分居によって戸数が増えたことも開墾を促すためのものである。
そして公孫鞅は斗、桶(斛)、権、衡、丈、尺(容量、重量、長さの単位)の統一も行った。この頃は国内でもそういったものの統一ができていなかったのである。
これに当然、反発も出たが、彼は気にせずに改革を進めた。
紀元前348年
公孫鞅は賦税法を改めた。
周代は井田制が行われていた。「井田制」は農民に私田と公田を与え、公田で収穫したものを国に納めさせるという制度である。しかし彼が井田制を廃止したため公田も無くなった。つまり国の収入源が閉ざされたことになる。
そこで公孫鞅は新たな税法を制定し、農民の実収穫に基づいて一定の税を納めるように規定した。
春秋時代後期にも魯を始めとする中原諸国が同じような税制を開始していた。しかしながらこの公孫鞅の改革は単純な税制の変化だけでなく、県制によって土地を整理し、度量衡を統一して一定の基準を作り、農業を振興させるための様々な法制を設ける(雑居を禁止して土地を開拓させる等)という、全面的な富国強兵政策の一環であった。
この変法改革によって秦はますます強大になっていった。
趙の粛公が陰晋で魏の恵王に会った。大きく外交方針を変えたものである。
そして、魏の殷臣と趙の公孫裒が共同に燕を攻撃し、兵を還して夏屋を取り、曲逆に築城した。
紀元前347年
趙の公子・范が邯鄲を襲ったが、敗れて死んだ。彼がこのようなことをした理由については不明であるが、趙が魏に近づいたことに反対するという意思があったのかもしれない。もしくは後継者争いの可能性もある。
魏の孫何が楚を攻撃し、三戸郛に入った。
翌年の紀元前346年にも魏の魏章が韓軍と共に楚を攻撃し、上蔡を取った。
紀元前343年
周の顕王が秦に伯(覇者)の任務を授けた。諸侯が秦を祝賀した。
秦の孝公は公子・少官に命じ、兵を率いて逢沢で諸侯と会させてから、周王に朝見させた。
趙の公子・刻が魏の首垣を攻めた。
魏の穰庛が梁赫で韓の孔夜と戦い、韓軍が破れた。
紀元前342年
魏に攻められた韓は周囲の国に助けるを求めると斉の田肹(田盼。田肦)と宋人が魏の東鄙(東境)を攻めて平陽を包囲した。それに合わせるように秦の公孫鞅が魏の西鄙を攻撃し、趙も魏の北鄙を攻撃した。
魏の恵王が秦軍を攻めたが、魏軍は敗退した。