桂陵の戦い
大変遅れました。昨日は投稿できず申し訳ありません、力尽きていました。
紀元前354年
秦が魏を元里で破り、七千級を斬首した。因みに秦の法では、戦で敵一人の首を斬ったら爵一級が与えられる。そのため首は「級」で数えられる。秦はこの勝利により、魏の少梁を取った。
魏の恵王は秦への備えを整えるも敢えて反撃はせず、趙を攻めて邯鄲を包囲した。
この報告が楚にもたらされると楚の昭奚恤が楚の宣王に言った。
「王は趙を援けず、魏を強くさせるべきです。魏が強くなれば必ずや趙の奥深くの地まで割譲させようとしするでしょう。趙はそれに従うはずがないため、必ず堅守します。その結果、双方が疲弊することになりますので、その隙をつくべきです」
それに景舎が反対した。
「それは違います。昭奚恤にはわからないのです。魏が趙を攻める途中で、楚が後ろを襲うことを恐れているのです。今、趙を救わなければ、趙は滅亡の形勢に陥り、しかも魏は楚を恐れる必要がなくなりましょう。これは楚と魏が一緒になって趙を滅ぼすのと同じであり、趙の害は必ず深くなります。一方的に趙が滅ぶにも関わらず、両者が疲弊することはありません。しかも、魏が兵を動員して趙の奥深くまで地を割かせ、趙に滅亡が迫っているにも関わらず、もし楚が趙を援けなければ、趙は魏と結んで楚と対抗する方法を考えるようになります。王は少数の兵を出して趙を援ける姿を見せるべきです。そうすれば、趙は強国・楚に頼って必死に魏と戦うことでしょう。魏は趙の必死な抵抗に憤激し、しかも楚の援軍が少数で恐れるに足りないと知れば、趙を許さなくなります。このようにして趙と魏を共に疲弊させ、その間に斉と秦が楚に呼応すれば、魏を破ることができましょう」
宣王は納得して景舎に趙を援ける動きをするように命じた。
紀元前353年
魏による趙の邯鄲包囲は未だ続いていた。この自体に対し、斉の威王は援軍を派遣しようとしたが、群臣たちからの反対にあっていた。
「汝が将として参れば、このような不毛な議論にならなかったのではないか?」
田忌は孫臏の元を訪れ、そう言った。
孫臏の前には木でできたよくわからない機械のようなものが置かれ、彼はそれを弄りながら言った。
「私は刑余の者ですし、この足では将軍としての威厳がとてもとても」
「それで私が将となるようにしたわけか。だが、群臣たちが反対していて出陣できないでいる」
「大丈夫ですとも、もうすぐ将軍が出陣を命じられるはずです」
するとそこに威王からの使者がやって来た。
「すぐさま、趙へ出陣されたし、とのことです」
「あいわかったと主公に伝えてくだされ」
使者が去ると田忌は孫臏を見る。
「どういうことだ?」
「鄒忌殿が魏への侵攻を進言されたのでしょう」
「そんなわけがあるか」
田忌と鄒忌は昔から仲の悪いことで有名であった。
「それでも反対の意思を明確にはしていませんでしたではありませんか」
つまり、賛成でも反対でもない中立の立場であり、発言力の高い人物である。
そこで孫臏は公孫閲(または「公孫閎」)に賄賂を渡して、鄒忌にこう言うように言い含めた。
「あなたはなぜ魏討伐を計画しないのですか。そうすれば田忌が必ず将となり、その田忌が戦に勝って功を立てたとしても、魏討伐を主張したあなたの謀によるものであり、もし戦に勝てなければ、田忌は進んでも死に、退いても敗北することになりますので、その命はあなたの掌中にあると言えるではありませんか?」
なるほどと思った鄒忌は趙への援軍に賛成した。内政の実力者である彼の意思表示により、反対意見の声は小さくなり、趙への援軍が認められたのである。
「ふむ、納得はしたくはないが、まあ良い」
鄒忌に利用されることに釈然としないものの田忌は出陣の準備を始めることにした。
「趙への援軍に行くわけだが、それまで邯鄲は持つだろうか?」
「陥落するでしょう」
孫臏は断言した。
「しかし、邯鄲を魏のものにさせないことはできます」
「お前は邯鄲は陥落すると言っていたではないか」
「ええ、そのとおりです。しかし、魏に占領することはできないでしょう。そのために私たちは」
孫臏は壁に立てかけられている地図を指差す。
「魏の桂陵を攻めます」
「趙には向かわないのか?」
援軍を送る相手は趙なのである。
「絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張ろうとはせず、喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わらないものです。相手の虚に乗じて要所を攻めるべきです。形勢に変化が現れて進行が妨げられれば、事態は自ずから解決します。今、魏は趙と争っており、軽兵鋭卒は全て国外におります。国内に残っているのは疲弊した老弱の者だけなのです。あなたが兵を率いて魏に疾駆し、街路を占拠して敵の虚を衝けば、魏は必ずや趙の包囲を解いて自国を守りに行くことでしょう。これが一挙によって趙の包囲を解き、魏を疲労させる計なのです」
「そう上手くいくだろうか。魏が有能な将を使い、我らに対抗させ時間稼ぎを行わせれば、我らは挟撃の形になるか邯鄲の占領が進み、我らの意図する結果ができないと思うのだが……」
田忌の指摘は決して的を射ていないわけではない。一方、孫臏はくすくすと笑う。
「何が可笑しい?」
「いえ、田忌殿は戦のことをよく見ておいでだと思いましてな」
彼はそう言ってからこう続けた。
「田忌殿のご指摘はもっともですが、ご心配は無用です」
孫臏は木で作った小さな球を持った。
「魏は我らに対する備えのための軍や将軍を出せるほどの余裕はありません」
彼は球を目の前にある機械の乗せた。すると球は転がり始め、あるところに止まると板が押され、別の球を動かし始める。
「物事というものは連動して動くものです。このようにね」
球や板が互いに弾きあったり離れたりを繰り返しながら動いていく。
「この度の戦も然りです。魏は以前から趙を攻めたく、そのために斉に近づき、秦にも近づきました。しかしながら秦は前年に盟を結びながらも魏へと侵攻し未だ削りとった地から離れてはいません」
そのため魏は秦への備えを行わなければならない。
「次に楚が魏の背後をうろちょろしております。まあ彼等は趙への援軍を語っておりますが、所詮は領地欲しさでしかないでしょう」
しかしながらそれにも魏は備えを割かなければならない。
「そして今、主力を趙へと向けております。これ以上は戦力を割くのは難しいでしょう」
やがて木の機械は最後のところに球が転がり、田忌の元に球を飛ばした。その球を田忌はやすやすと掴む。
「我らはその隙を突いて勝利を得るということです」
孫臏はにやりと笑う。
「お前の口ぶりだとまるで秦と楚が動いたのは、策によるものに見えるな」
「ご明察ですな。楚は賄賂を渡せば、如何ようにもなる方でしたが、秦の方はどうにも難しそうだったので、口の上手い方に行ってもらいました」
「そうかい。そう言えば、あのお喋りな人が宮中からいなくなっていたな」
秦のある部屋。
「人使いの荒い人だよね」
淳于髠は一人、茶を飲んでいた。
「田忌殿、戦における勝利とは戦場で軍隊がぶつかり合うその前にもぎ取っておくものですよ」
孫臏は彼に向かってそう言った。
「なるほどな。だが、意外だったな」
田忌は球を孫臏に投げ返した。
「何がですかな?」
「お前は人の死をたくさん見たいと言っていたではないか。泥沼みたいな戦を好むと思っていたぞ」
孫臏は肩をすくませ、
「確かにそうですがね。私はそのようなやり方は好まないのです。それに……あなたの約束しましたからなあ。斉の民を巻き込まないと、ですので我が軍に被害ができる限りでないやり方を取っています」
と言うのに田忌は意外そうにしながら言った。
「意外だな。そういうものは守るのか」
「私をなんだと思っているのでしょうか。約束のひとつやふたつ守りますよ」
その彼の言葉に田忌は笑いながら彼の肩を叩く。
「そうかい。そうかい。まあ取り敢えず、戦としようか」
「ええ」
田忌を総大将とし、孫臏は師として輜車(屋根がある車。本来は輜重を運ぶ車)に乗って共に斉軍は出陣した。
斉軍は魏の東鄙(東境)を攻めた。
「これで魏軍は戻ってくるというわけか」
「そうです。しかし魏軍がこの報告を聞いてもすぐには来れないとは思えますがね。邯鄲を攻略するか趙の主力を破るかのどちらかを行ってから退却するでしょう」
つまり邯鄲攻略を行っている魏軍は斉軍の存在に気づいた以上は逃げ道を抑えられている以上、退却して斉軍をどうにかしないといけないのだが、その時に趙と斉が連携して挟撃でもしようものならば、たまらない。
そこで魏軍は趙の邯鄲を攻略して、後方の憂いを絶ってから退却すると孫臏は予想した。数日後、彼の予想通り、邯鄲は陥落させてから魏軍は占領もせずにこちらに退却を始めたという。
「では、田忌殿。桂陵で陣を張り、そこで魏軍と対峙しましょう」
「あいわかった」
斉軍は桂陽に移動し、陣を張った。
「さて、あとは魏軍に勝つだけか」
「はい。確実の勝てる戦ですけどね」
余裕そうにしている孫臏を田忌はたしなめた。
「戦はいつの時もどうなるかわからんぞ」
「そう言ってくださるのはありがたいのですが、大丈夫です。魏軍は邯鄲を無理して陥落させました。兵たちは陥落させた時は達成感に溢れていたことでしょう。しかし、ここで後方にいる斉軍と対峙しなければならなくなったとなれば、士気は大いに下がったことでしょう」
「兵を率いる者たちは邯鄲を落とす前に我らのことを知ったはずだ。それならば兵に知らせて士気を維持させることもできなくはないのではないか?」
田忌がそう問うと、彼は答えた。
「田忌殿、よくお考え下さい。城を攻めている最中、後方を敵軍に抑えられていると知って、兵たちがまともに戦えると思いますか。普通ならば、隠したいものではありませんかな?」
退却した時に邯鄲から攻められたくないために無理をしてでも邯鄲を抑える必要があったために隠して戦闘を行うべきであろう。
「こちらに魏軍は士気が低いままで来ることになる。つまりは人の和ではこちらが上ということになります。次に、先に桂陵を抑えたことで地の理でも有利となっております」
そこに兵が駆け込んできた。
「報告します。間諜から魏都からこちらに向かって軍が出たとのこと」
「何?」
報告を受けた田忌は思わず、孫臏を見た。そして、孫臏は眉を顰めつつ言った。
「率いる将軍は龐涓かな?」
「はい、左様でございます。率いる兵数は数百とのこと」
それを聞き、孫臏は続けて言った。
「騎兵はどれほどいる?」
「一割程度と聞いております」
これを聞くと孫臏はにやりと笑った。
「そうか。そうか案外、龐涓は魏の宮中で顔が聞くようだねぇ」
からからと彼は笑う。
「田忌殿、ご心配なさらず、天の時もこちらに味方したようです」
「ほう、そうか。都からこちらへ援軍が」
魏軍の将軍が援軍が来るという報告を受け、笑みを浮かべる。正直、助かるからである。例え、数百の兵と言え、援軍に違いがなく、旗下の兵たちの士気は少しは上がった。
「あとは、その援軍とどう連携を取るかだが」
「将軍、既に援軍は我が軍の近くまで来ているそうです。斉軍と対峙するためにも合流すべきだと言っております」
「そうか。確かに数百の兵だ。合流した方が良かろう」
魏軍は援軍と合流を図ることにした。そして、少し時が経った後、援軍らしき軍勢が見えた。
「あれか」
将軍は援軍の姿が見えたことにほっとした。
「しかし、将軍。どうにもこちらに来るにしては速すぎませんか。まるで……こちらに突撃でも仕掛けるような」
副将の言葉に将軍ははっと驚き、叫んだ。
「あれは、援軍ではない。敵だ。敵だ」
「おや、気づかれたか。もう魏の旗は良い。斉の旗を掲げよ」
馬に乗って先頭を駆ける田忌の指示により、数百の騎兵たちは斉の旗を掲げた。
「では、突撃ぃ」
彼等は真正面から混乱している魏軍に突撃を仕掛けた。田忌は矛を振るいながら敵将を探す。やがて魏の総大将が見えた。
「覚悟」
矛を彼に向かって、突き出すがそれを副将らしき男が庇い、代わりに貫かれた。
「総大将ではないか。仕方ないな。このまま突っ切って脱出するぞ。孫臏殿の矢が降ってくるからな」
彼がそう言うと、高台から魏軍へ矢が放たれていった。予想外の突撃、無数に降る矢に魏軍は大混乱に陥った。
「おのれ、斉軍め」
魏の将軍は必死に軍を立て直しを図った。すると急に降り注いでいた矢が止んだ。
「あの騎兵どもは」
「どこにもいません」
「おのれぇ斉めが」
将軍は自身の剣を地面に叩きつけた。
その後、龐涓の援軍が桂陵に辿り付いた。彼は斉軍が侵攻した時、敵将の中に孫臏がいることを知って魏の恵王に援軍を派遣するよう訴えた。
最初は都の防衛のためにも兵を割けないと言われたが、彼は粘り強く説得して、何とか数百の兵を率いることができた。
しかしながら騎兵は一割ほどしかおらず、そのため行軍速度は速くはなかった。
「仕方ない」
彼はそれでも何とか急がせて、桂陽にたどり着いたのであった。
そこで魏軍と合流したのだが、
「我らの振りをして、ですか」
「ああ、君たちの援軍を利用されてしまった。斉めなんと卑怯な」
彼の前には、傷ついた魏軍の者たちがいた。
「そうでしたか……」
(おのれ孫臏め)
自分を利用して、相手を破る策としてしまう。なんという策の出し方か。そこに兵が報告にきた。
「斉軍の陣地らしきものが見つかりました。ただ……」
「ただ。なんだ?」
「実はその陣地はもぬけの殻なのです」
将軍と龐涓は顔を見合わせながらもその陣地に向かった。するとそこには木の棒に先の戦で戦死した副将の首が晒され、書簡らしきものがくくりつけられていた。
将軍はそれをとって、見ると書簡を龐涓に見せた。書簡を見てみるとそこにはこう書かれていた。
「龐涓へ。君が全て騎兵の兵を持って援軍に行き、私たちの後方を乱せば、良かったと思うのに、実に残念で仕方ない。だから次の戦で会う時は騎兵を率いて来ると良いと思うよ。孫臏より」
彼は激怒し、書簡を地面に叩きつけた。
「おのれ、孫臏。小馬鹿にしよって」
こうして桂陵での斉と魏の戦いは斉の勝利に終わった。




