狂人
大変遅れました。
「あいつがどこにもいないだと」
龐涓は驚きの声を上げた。幽閉していたはずの孫臏がどこにもいないのだという。
「足を斬られているから自力の脱出は不可能なはず……」
彼は天を睨みつける。
「天よ。あの者は危険な男なのですぞ。何故、あの者を助けるのか……」
あれの狂気が世に出れば、どれほど多くの命が失うことになるのか。孫臏のことをよく知る彼だけに恐ろしかった。
ゆらりゆらりと馬車に揺られながら孫臏は絵を書いていた。描かれている内容は何かの死体の絵である。
(後ろでそんなものを描くのやめてくれないだろうか)
使者はそんなことを思いながら馬を走らせる。やがて、孫氏のいる邑に着いた。入口の前に男が立っている。孫臏の父である。そして、彼の前には車輪が付いた椅子があった。
「父上」
使者に抱っこされて馬車から降りた孫臏はそう言った、
「無事であったか」
孫臏の父はほっとしたような残念であるような複雑な感情を滲ませながら彼を迎え入れる。
「流石は父上、このようなものをお作りになられるとは」
使者に抱っこされたまま孫臏は車輪の付いた椅子に目を輝かす。
(数少ない息子の人間らしい感情が見える瞬間だ)
彼の父は僅かにそう思いながら孫臏にこの椅子に座るように言う。
「父上、中々に快適ですぞ」
孫臏はからからと笑う。そんな彼を見ながらも彼の父の目は冷めていた。
「主公はお前を登用したいようだ」
「ほう、なるほど父上はそれを利用して私を助け出したということですか。流石ですなあ」
「よく言う。私がそういう行動をすると思っていたであろうに」
孫臏はにやりと一瞬笑ったものの、直ぐに屈託のない表情に変わる。
「死にかけておりましたので、そんな余裕はとてもとても」
「さて、先ほど言った主公がお前を登用したいという件だが、主公は既にお前の足が無くなってしまっていることを知っている」
「つまり、足を斬られているからどうすれば良いかわからないということですなあ」
「そうだ」
孫臏の父は目を細めながら言った。
「そこで私はお前を一旦、田忌殿に預けることにした」
「ほう。左様ですか」
「あとは……わかるな?」
「ええ、あとは私次第ということですね」
くすくすと彼は笑う。父は自分を戦場に出したくはないのだ。そのため武勇を第一とする田忌とは自分が相性が悪いと思って、彼の元に預けようと考えたのだろう。
(優しいねぇ)
「父上と主公のご期待にお応えしてみせましょう」
孫臏はそう言う。父は目を伏せ、首を僅かに振って期待していると呟いた。
「では、私はさっそく田忌様の元に参ろうと思います」
彼は椅子を使者に押されながら父の元を去った。
「恐ろしいことだ」
(きっと息子のことだ。何かの手を使って、自分が戦場に出れるようにするのだろう)
何故、あのような子になってしまったのか。戦の全てを教えた最高傑作。それが息子であったはずなのに……
「私はあの子が怖い。あの子が戦場でこれから行うことがとても恐ろしい」
「私の父上は大変、素晴らしい父なのですよ」
孫臏は使者に対してそういった。
「とても尊敬なさっておられるのですね」
「ええ、とてもとても尊敬しております。戦の全てを教えてくださったのは父上ですからね」
彼はそういった。
数日後、孫臏は田忌に会った。筋骨隆々の大男である。
「お前が孫臏と名乗っている男か」
「左様でございます」
「お前は何ができる?」
「天の理を持って、戦場を思うがままにできます」
その言葉に田忌は鼻で笑う。
「その足でか……まあ良い。お前は戦場に出たがっているようだが、何のためだ。地位か名誉か?」
「この足を斬った者を殺したいなあと思っているだけで、地位や名誉などはいりません」
「そうか」
その後、孫臏は対して用いられることはなかった。但し、生活の面倒は田忌の家の者が見てもらえるようになった。
この頃、あることが流行していた。食客を養うことである。いつ役に立つかわからない身分不明な者を養うということがこの時代から流行り始めたのである。
やがてこの食客をたくさん集め、活用する戦国四君なる者たちも現れるようになる。
今回の孫臏が養われているのもその流行に合わせたものである。
「さて、このままじっとしたままだと戦場に出れないなあ」
孫臏としてはそれは不都合なことである。
「だからちょっと遊びをしよう」
しばらくしたある時、斉の威王と公子たちと田忌が馬を三組ずつ出して勝負する競馬みたいなものを催した。
孫臏はそれに同行し、田忌に対して、言った。
「主公が所有されております上等の馬が出る競走には、あなた様の所有する下等の馬を出してください。主公の中等の馬が出る競走には、上等の馬を、下等の馬が出る競走には、中等の馬を出してください。さすれば、あなた様は千金を得ることができましょう」
「それは主公が出す馬がわからなければ意味がないぞ」
「既に把握済みでございます。私が言ったとおりになさってくだされた良いのです」
田忌は胡散臭そうにしながらも彼の言うとおりにした。すると二勝一敗という結果となり、千金儲けることができました。
「なるほど、汝の実力の真髄を見たような気がする」
「流石は将軍、ご明察でございます」
孫臏の言葉に田忌は目を細める。
「復讐を望むが故に登用されようとしているわけではないのだな」
彼は孫臏と最初に会話した時、何のために戦場に出たいのかと孫臏に聞くと孫臏が自分の足を斬った者を殺したいと言った。
つまり復讐のために戦場に出るのだと思ったのである。復讐心というものは人に大きな力を与える者だが、そういった者たちは大抵、とんでもない失敗をやらかすことが多い。
(そんな者に率いられる兵はかわいそうだ)
彼は兵を率いる上で兵のことをとても大切に扱う人物であった。
「復讐ですか。いえいえ私は復讐がしたいなど、ちっとも思ってはおりません」
孫臏はくすくすと笑いながらそう言った。
「では、何故お前は戦場に出たいと思うのだ?」
田忌がそう問うた。
「たくさんの死を見たいと思っています。ですが、最近は少し変わってきている部分もあります」
「ほう」
先ほどのものも到底理解できないものであるのに、それから先のことがあるのかと孫臏を見ながら田忌は思った。
「私は人というものが好きなのです。理由はその滑稽さであり、醜さであり、愚かさなどそういった複雑に絡み合った人の感情を見るのが好きなのです。そして、それらが弾けるように見えるのが死ぬ瞬間なのです。私はその瞬間がたまらなく好きなのです」
彼は手を合わせながら言う。
「そう最初はその死の瞬間を見届ける者になりたいと思っていました。しかし、私の友人を見てかわりました。私の友人は大変、人らしい人なのです。その友人である彼の死の瞬間を演出してやりたいと思ったのです。彼の友人として、彼に素晴らしい死を届けてあげたいのです」
それを聞いた田忌は鼻で笑った。
「素晴らしい死だと、そんなものはお前の押し付けに過ぎないだろう」
「その通りです」
孫臏はそう答えた。
(こいつ、自分の狂気を理解しているな)
人というものはどこぞに狂気がある。違いがあるのは大小の差でしかない。彼はその狂気を理解している部分がある。
(理性に狂気が宿っているのではない。狂気に理性が宿っているのだ)
「だが、その傲慢なものが振るわれる先が他国に向けられるなら良いぞ。主公にも合わせてやろう」
彼の言葉は孫臏としては意外だった。
「意外ですね。そんなことを言う人は珍しいのに……」
田忌は言った。
「確かにお前の言動は問題だ。だが、戦場においては相手を殺すことは当たり前だ。何を恐れることがあるか」
彼はそういったあと、こう言った。
「但し、約束を儲けたい」
「約束?」
「我が国の民は巻き込まないこと、お前が采配をするときは私が同行しているときだ。良いな。もしこれが破られるようであれば……」
田忌は孫臏に近づいた。
「私がお前を殺す」
「ええ、構いませんよ」
孫臏は肩をすくませ、田忌の言葉に頷き、同意した。
その後、田忌はさっそく威王に孫臏を推薦した。威王は孫臏と話しをしてみて、兵法の師と仰ぐようにした。
この翌年、孫臏という狂気が斉の軍とともに天下の表側に立つことになる。




