秀才
大変遅れました。
天というものはいつの時も人に試練を与えながらも実に不平等な存在である。しかしながら天というものには偏愛もあるようである。
そんなことを幼い頃から龐涓は思うようになっていた。
彼は魏の名門の出あり、才覚に溢れていながらも驕ることはなく。貪欲に自らの才覚を磨いてきた。そのため龐涓は斉の孫氏の門を叩いた。
孫氏。将軍を志す者は必ずや知ることになる存在である。今は亡き、呉という国を強国にし、天才的な戦を行った先祖でもある孫武が書いた『孫子の兵法』を伝え、研究する一族だからである。
彼はそこで戦術を学び、上位の位置付けされるぐらいに成績が良かった。だが、常に彼よりも上位にいる男がいた。
孫氏の息子である。
しかしながら龐涓はそのことには嫉妬することはなく、それどころか彼と親しく付き合った、二人は戦術について、『孫子の兵法』について語り合った。これほどに語り合える存在は今までいなかった。
(友に出会うということはこういうことか)
彼はそう思ったが、共に学ぶ同門の者たちは孫子の息子には近づこうとはしなかった。龐涓は彼等にその理由を尋ねると皆、口々に、
「不気味」
と答えた。確かに孫氏の息子には奇妙な趣味があった。一人で森の中に入り、手のかかった罠を作って獲物を取るというものである。一見、大したことがないと思うが、その罠で絶命した動物の肉を得るなどではなく、直ぐに捨ててしまうというところに不気味さがあるのである。
また、彼は絵を描くことがある。その絵の内容がこれまた不気味であり、動物の遺体の絵を描くのである。
(確かに不気味ではあるが……)
龐涓とてそうは思うのだが、それでも彼の才覚は素晴らしいものがある。彼は決してそういった不気味な趣味だけで差別をしなかった。
「龐涓は優しい男だ」
孫氏の息子は常々そう言う。
「私はただ、才覚ある者は認められるべきだと思っているだけだ」
龐涓はそう言うと孫氏の息子はくすくすと笑う。
「やっぱり優しいなあ」
そんなこんなで孫氏の元で共に学び、やがて龐涓は魏へと帰ることになった。仕官のためである。
「君と離れるのは寂しいものだ」
孫氏の息子は彼に向かってそういった。
「私もだ。だが、魏で素晴らしい将軍になることは私の夢でもあったからな。ところで君はどうするのだ?」
龐涓が聞くと彼は答えた。
「私も将軍になりたいと思っているよ。でも、父上はここを任せたいと言って、将軍にならせようとしないのさ」
「だが、ここで教育に従事するというのも良いことではないか。君は教えることも上手いしな」
「それでも私はね。将軍に、軍人になりたいのさ」
孫氏の息子はにやりと笑う。
(昔から彼はそう言っているが、理由までは聞いたことはなかったな)
龐涓はそう思って聞いた。
「なぜ、それほどになりたいのだ?」
もし過去に戻ることができれば、龐涓はこの時に戻りたいと思うだろう。戻ってこの質問をしないように止めるのだ。
「人の死ぬ瞬間をたくさん見ることができるからさ」
孫氏の息子の口角が見たことがないほどの曲線を描いていることに思わず、龐涓は後退りした。
「なぜ、そんなものを……」
「将軍は多くの人を殺す仕事だからだよ」
「違う。国に勝利をもたらす者が将軍なのだ」
「違う。違う。それこそが違う。将軍は数多の人を殺すことが仕事さ」
龐涓は震えるものを感じる。彼の言葉に込められたものはあまりにも冷たい感情があるからである。
「君は人の死ぬ瞬間を見たいというのならば、そのへんで人を斬れば良いではないか」
孫氏の息子は首を振った。
「龐涓、それじゃあ。私は捕まってしまうではないか」
彼の口は笑みを保ったままである。
「それじゃあたくさんは見ることができない。それにね。私は力が弱い。殺せたとしても一人や二人ぐらいさ。効率よく、自分の手ではなく、多くの者の死の瞬間を見たいのだよ」
「そ、その戦場で例え親しい者がいたとしても……」
「うん。特に見たいねぇ」
彼がそう言った瞬間、龐涓は自分が彼によって殺される瞬間を想像してしまった。
「そうか……できれば戦場で会いたくないな。君とは殺し合いたくない」
龐涓はそう言って、逃げるように彼から去っていった。それを見ながら孫氏の息子は呟いた。
「優しいなあ」
彼は家に戻り、自室に入った。そして、一枚の板を手に取った。それには絵が描かれており、大木の前でたくさんの矢に射られている男の姿が描かれていた。
「素敵だ」
彼はその絵を撫でながらそう言った。
龐涓は魏に戻るとそのまま出世街道を歩いていき、順調に出世していた。そんなある日、書簡が届いた。送り主は孫氏の息子であった。
別れ際での会話を思い出しながら、恐る恐る中身を見た。
そこには父が斉君に招かれて、仕官を求められたが断られたという内容が書かれていた。そして、その際に自分を勧めなかったため、自分は未だに将軍になれていないことを嘆いていた。
「将軍になりたい……か……」
手に持っている書簡ごと震わせながら彼はそう呟いた。
もし、あの男が将軍になればたくさんの人々に死を振りまき、自らの願望を満たそうとするだろう。そんなことが許されるのだろうか。決して許されるべきではない。
「あの男をこの天下に放ってはいけない……」
どこか使命感に似たものを感じながら彼は書簡を書いて、孫氏の息子へ送った。内容は共に魏で将軍として戦場に出ないかというものである。
龐涓はその書簡を送ると同時にある感情が溢れていた。
「来ないでくれ」
友情と狂気への恐怖。彼は頭が良いと同時に優しい人物であった。
もし、頭がそれほど良くなければ、もし、優しい男でなければ、彼のこの苦しみも未来も少しは違ったものになっていたかもしれない。
孫氏の息子が来た。
「すごい出世したんだね」
孫氏の息子は龐涓の屋敷を眺めながらそう言った。
「そこまででもないさ。さあ入ってくれ」
二人は屋敷に入ると共に酒を酌み交わしながら昔話に花を咲かせた。そして話題は魏のことへと変わった。
「最近、魏は宋に負けたみたいだね」
そう魏の恵王は秦の孝公との会した後、宋の黄池を侵して占領した。しかし、宋は独力でこれを取り返してみせたのである。
「油断があったみたいだ」
「そうだね。しかも秦も勝ちきれなかったみたいだしね」
秦の公孫壯が韓を攻撃し、焦城を包囲したのだが、勝利することはできなかった。公孫壯は仕方なく兵を率いて上枳、安陵、山民(または「山氏」)に城を築くことにした。
「外交面でも優位に立てていない。どうにも後手ばかりに回っているように思えるよ」
趙は魏への対抗として、衛を攻めて漆富邱(または「漆」と「富邱」)を取り、城を築いたのである。
このように魏は外交面でも、軍事面でも他国の優位に立つことが難しくなっている。
「ああ、魏は四方を他国に囲まれているからな。勝ちきれないと中々上手くいかない」
「魏は立地は良いけど。戦をするのが難しいよね」
龐涓は彼に聞いた。
「君ならば、この後どうしていく」
「先ずは趙を倒すことを勧めるね。ここまで趙の同盟国である宋や韓を攻略してから趙へという戦略だとは思うのだけど。ここは直接、趙を叩くべきだと私は考えるよ。一番強力な趙の同盟国である斉は魏とも同盟国だから手が出せない。それに斉は燕に目を向けている。趙を攻める状況は成り立っていると思うよ」
「なるほどな」
龐涓がそう言うと立ち上がって手を上げた。するとそこに多くの兵が現れた。
「お前は国の事情に通じすぎている。よってお前を捕らえる」
「証拠は?」
孫氏の息子がそう問うたが、龐涓は答えようとせず、兵に連れて行くよう命じた。
孫氏の息子は台の上に乗せられ、手を押さえつけられた。そして、大きな刃を持った男が現れ、彼の足に剣を向けた。
「足を、なぜ足なんだい。首ではないのかい?」
「黙れ」
彼の質問に誰も答えることなく、刃は彼の足に向かって振り下ろされた。あまりの激痛に孫氏の息子は気絶した。
しばらくして目覚めてみると薄汚れた部屋の中におり、彼の両足は膝から下は失われてしまっていた。そして、顔には罪人の文様が描かれていた。
「さて、龐涓はなぜ、この首を斬らなかったのだろう」
彼は自分の首を叩きながらそう呟いた。
「考えられるとすれば、龐涓が庇ったという可能性もあるけど、無いね」
見る限り、龐涓が主導的に行っていたからである。ならば何故なのだろうか?
「優しいねぇ」
彼はそう呟いた。龐涓は自分を殺さなかったのではなく、殺せなかったのである。理由としては友として、このような形で殺すという手段について、様々な倫理観が邪魔をして行えなかったのだろう。
孫氏の息子はくすくすと笑った。
「ああ、彼は実に、実に人間らしい」
自分へ向けている感情は恐怖でありながら友人という感情を捨てきれておらず、自分を何とかしなければならないという強い使命感を持ちながらも、このような形を取りたくないという倫理観もある。
矛盾した思い、複雑な思いの結果、こういう形になったのだろう。そんなところは実に人間らしいと思うと同時に愛しく思う。
「だから私は君を……それよりもどうしたものか。このままだとここで私は死んでしまう。それは実に残念だから脱出したいのだが……」
両足を斬られてしまっては動きようがない。
「どうしようもないね」
彼はそうそうに諦めた。
「父上次第かな」
そのつぶやきは小さかった。
斉の威王は不快な報告を聞いていた。
燕と泃水で戦ったが敗走してしまったというものである。
「斉には猛将はいても名将がいない」
威王自ら戦場に出れば、戦に勝つ自信があったが、だからといってそれでは政務に集中できない。よって彼は名将を求めていた。
そんな時、孫氏が謁見を求めていると臣下が伝えてきた。
孫氏は名将を求める上で声をかけて仕官をするよう求めたが老齢であることを理由に断られていた。そんな彼が何をしに来たのか。
「仕官する気になったのか?」
威王は孫氏にそう訪ねた。
「いいえ違います。但し仕官されるべき人材を勧めに参ったのです」
「ほう、その者は?」
「私の息子です」
「御子息か。孫氏ほどの方が勧めるということはよほどの人物であろう。良かろう会おう」
威王がそう言うと孫氏は言った。
「実はその息子は魏に行ってから行方知れずとなっております」
「つまり何か。この私に汝の息子を探せというのか?」
威王は怒気を交えながらそう言うと孫氏は頷いた。それを見ると威王は怒気を抑えた。
「それほどに才覚のある男なのか?」
「はい。ただ扱いの難し者でもあります」
「良かろう。探すとしよう」
「感謝します」
こうして威王は使者を魏に派遣した。
使者はしばらく魏に滞在し、孫氏の息子を探した。そして、幽閉されているところを見つけることができた。
「これはこれは父上の采配でしょうかな?」
頬がこけた孫氏の息子がそう言ったため、使者は彼と対話し彼こそが探し人だと確信すると、警備の薄い日に彼を脱獄させた。
「主公はあなたが斉の力になって下さることを望んでおります」
「出来る限りを努力致しましょう」
孫氏の息子は使者に拝礼した。
「そういえば、あなた様の名をお聞きしていなかった。お聞きしても?」
使者が彼に問うと彼は顎に手を当てて答えた。
「そうですなぁ。孫臏と呼んでください」
「刑罰の名ですよ。よろしいのですか?」
「ええ、せっかく中々無い機会ですし、この名で良いでしょう」
変わった人とは聞いていたがと使者は呟きながら馬を走らせた。
「楽しみだなあ。そうだろう龐涓」
孫臏は馬に揺られながら目を閉じた。




