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夢幻の果て  作者: 大田牛二
第二章 諸子百家鳴動
23/186

第一次変法

 紀元前359年

 

 秦の公孫鞅こうそんおうによる変法改革を行うとした。しかしながら秦の大臣たちは彼の変法改革に反対を行った上、中々進まず、秦の孝公こうこうも改革断行を躊躇し始めた。


 それではいけないと思った公孫鞅は孝公に言った。


「行動を疑い躊躇すれば、名を成すことができず、事を疑い躊躇すれば、功を成すことができません。凡人を超えた行いをする者とは、しばしば世の人々から非難されるもの。そして、独特な見解を持つ賢者とは、民から驚かれるものなのです。愚者は事がなってもその功罪を知ることができず、智者は事を行う前にその結果を見通すことができます。民とは、事を起こす時には共に考慮することができず、事が成ってから共に享受することができるものです。至徳を論じる者は俗人(凡人)と和すことなく、大功を成す者は大衆と謀ることもございません。だからこそ、聖人は国を強くすることさえできれば旧法にこだわらず、民の利になることであれば、旧礼にこだわることがないのです」

 

 孝公は公孫鞅の意見に同意したが、これに甘龍かんりゅうが反対した。


「それは違います。聖人とは民の習俗を変えずに教化を行い、智者とは旧法を変えずに治めることができるもののことを言うのです。民の習俗を変えずに教化すれば、労なく功を成すことができます。旧法に則って治めれば、吏(官吏)が法に習熟して民が安らかになるのです」

 

 公孫鞅はこれに反論した。


 彼龍の言は世俗の言に過ぎません。常人(凡人)とは古い習俗に安心し、学者は自分の見聞に溺れるものです。この二者は官に就いて法を守るだけで充分であり、法の外の事を論じる能力はございません。三代(夏・商・周)は異なる礼制を用いて天下の王となり、五伯(春秋五覇)は異なる法を用いて霸を称えました。智者が法を作り、愚者はその法に制されるものなのです。賢者が礼を改め、不肖の者はその礼に制御されるべきです」

 

 杜摯としが言った。


「百の利がなければ法を改めてはならず、十の功(効果。長所)がなければ器(器物)を変えてはならないと申します。古から法に過失はなく、礼に則っていれば邪(過ち)もございません」

 

 公孫鞅はこれにも反論した。


「治世の道は一つではございません。国に利便があるのであれば、古に則る必要はありません。だから商の湯王とうおう、周の武王ぶおうは古の法に則ることなく王になり、夏の桀王けつおう・商の紂王ちゅうおうは礼を改めることなく亡んだのです。古に反対する者を非難してはならず、旧礼を固守する者を称賛してもなりません」

 

 孝公は彼の意見を支持して、左庶長に任命した

 

 これによって変法の令が制定されると、民を「什伍」に編成した。


 五家で「伍」、二つの伍(十家)で「什」である。同じ「什伍」に属す民は互いに監視し、誰かが罪を犯せば、「什伍」全てが刑を受けるとした。これを「收司・連坐」という。

 

 姦者(罪人)を告発すれば、敵の首を斬った功績と同等の賞賜が与えられ、姦者を庇って報告しなければ、敵に投降した時と同じ罰が与えられるとした。

 

 また、軍功を上げれば内容に応じて上の爵位が与えられ、私闘をした者は軽重に合わせて刑が行われた。

 

 民を本業において尽力させるため、耕織(農業や機織り)の成果として粟帛(穀物や帛布)を多く納めた者には賦役を免除した。

 

 逆に末利(不当な職)に就いたり怠惰によって貧困を招いた者は、家族全て奴婢にした。

 

 官爵や秩禄の等級を明らかにし、等級に応じて田宅や臣妾(奴婢)、衣服を享受できるようにし、功がある者は栄華を獲得し、功が無い者は富があっても芬華(名誉)を得ることができなくした。


 秦の宗室(公族)でも軍功がなければ宗族の籍から外された。この公孫鞅の改革は秦を強大にしていくことになるが、同時に既存の特権を失った貴族達の恨みも招くことになる。

 

 こうして法令は整ったが、民はこの法に対して懐疑的であった。そこで公孫鞅は国都の市の南門に三丈の木を立て、


「木を北門まで運んで立てることができた者には十金を与えるだろう」


 と宣言した。

 

 しかし民衆は奇妙に思うだけで動こうとしなかった。

 

 公孫鞅が改めて、


「木を移すことができた者には五十金を与えるだろう」


 と言うと、一人の男が進み出て、木を北門に移して立てた。公孫鞅は約束通りに男へ五十金を与えた。すると人々は彼の言に偽りがないと知り、法令に従うことにした。

 

 だからといって、そのまま従ったわけではなかった。変法が始まって一年が経つと、国中の民が国都を訪れて新令が不便だと訴えたのである。


 その数は千を数えたという。

 

 ちょうどそのころ、太子が法を犯した。

 

 公孫鞅はそれを聞くと、


「法が行われないのは上の者が犯しているからだ」


 と判断した。確かに上の者が法を犯しているのに、民に従えと言っても聞かないだろう。


 しかし今回の件で難しいのは、法を犯したのが太子であるということである。


 国君の跡継ぎである立場であるために刑を施すことができないのだ。


 そこで、彼は太子の傅(教育官)を勤めていた公子・虔を処刑し、太子の師である公孫賈を黥(顔に入墨する刑)に処した。

 

 翌日、国都に集まっていた秦人は皆、帰って行き、新令に従うようになったという。

 

 変法改革が始まって十年経つと、秦では道に落ちている物を拾って着服する者がいなくなり、山にも盗賊が住みつかなくなった。民は公戦(国の戦)で勇敢に戦い、私闘をする者はいなくなり、各地の郷邑が大いに治まった。

 

 かつて新令の不便を訴えた者達の中から、新令を称賛する者が出てきた。それを聞いた公孫鞅は、


「彼らは皆、法を乱す民である」


 と言って全て辺境に移住させた。公孫鞅からすると自分の法令をただただ称賛し、媚びる連中よりも甘龍や杜摯の方が好ましいと彼は思ったのである。

 

 この後、彼の法令について議論する民はいなくなったという。



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