魏の外交
紀元前369年
周の烈王が死に、弟の顕王が立った。
魏の恵王が即位した魏であったが、そのことに不満を覚えていた者がいた。恵王の弟である公子・緩である。
恵王と彼は父である武公が生きている間、二人のどちらが後継者になるかで争った。その時、恵王を支持したのが大夫・王錯であった。
彼の支持によって恵王が後継者となった恵王であったが、後継者争いを行った相手である公子・緩に対してあまり悪感情がないらしく、彼に邑を与えた。
そのことに対して王錯は反対意見を述べたが、恵王は聞き入れなかった。
王錯は後の乱を恐れ、韓に出奔してしまった。
一方、公子・緩は邑を与えられたことで、恵王へ疑心暗鬼となっていた。本来、後継者争いで争った相手に邑など与えるはずがないからである。
そこで彼は臣下のの公孫頎を韓に派遣することにした。
公孫頎は慎重な男だったようで、宋から趙に入り、趙から韓に入って韓の懿公に謁見した。
「魏君と公子・緩が太子の位を争ったことは、貴君もお聞きのことかと思います。今、魏君の元から王錯が去り、魏は混乱し始めています。この機に魏を攻めれば、必ずや魏を破ることができましょう。機会を逃してはなりません」
喜んだ懿公は趙の成公を誘い、共に兵を出して濁沢(湪沢)で魏軍に大勝した。
この隙を突いて七月、公子・緩は邯鄲(趙)に入って挙兵した。
韓、趙の連合軍は魏都を包囲した
成公が言った。
「魏君を殺して公子・緩を擁立し、その地を割いて奪って兵を退けば、我々二国の利になりましょう」
しかしこれに懿公は反対した。
「それはいけません。魏君を殺すのは暴であり、地を割いて退くのは貪です。魏君と公子・緩に治めさせて、魏を二分するべきです。魏を二分すれば宋・衛にもかなわなくなりますので、我々も魏を憂いる必要がなくなります」
趙はこれに同意しなかった。懿公は不快になり、夜のうちに兵を引き上げてしまった。
それを知って成公も撤兵した。
これによって恵王は公子・緩へ軍を出し、これを殺した。
この韓と趙の行動について太史公こと『史記』の作者である司馬遷が意見を述べている。
「魏の恵王が殺されず、国を二分されることもなかったのは、二国の謀が不和であったためである。もしも片方がもう片方の謀に従っていれば、魏は分裂していただろう。だから『国君が死んだ時、もし跡継ぎがいなかったらその国は敗れる』と言われているのだ」
紀元前368年
斉が魏へ侵攻した。斉の威王自ら軍を率い、魏軍を破って、観津を取った。すると趙が斉に侵攻した。
斉が勢いが増しているのは目に見えて明らかであった。そのため趙は先の件であまり良い関係になっていた韓と次に周を攻めた。
ちょうど、この時、周の内部で反乱が起きており、これに二カ国が介入したことで周は二つに分かれることになった。
斉が力をつけ始めたと同時にその名が広まったのは、周への来朝である。そのため二カ国は周への影響力を高めたかったのだろう。
紀元前366年
魏と韓が宅陽で会した。韓は魏で二分させようとしたため、魏としてはあまり良い関係ではない韓と会したのは、勢いを増す斉に対しての行動である。
しかしながらこれを裏切りだと思ったのは秦である。そもそも秦は魏と結び、韓を攻めたことがあった。そのためその韓と魏が結んだことを魏の背信行為と秦は見たのである。
結果、秦は魏を攻めた。魏に対して韓は援軍を出したが、それごと秦は破ってみせた。
秦は強い。そう思った恵王は何を思ったか公子・景賈に兵を率いさせて、韓を攻めた。つい最近まで同盟国であったにも関わらずである。
これに対して韓は韓明を派遣し、魏軍を戦ってこれを破ってみせた。
紀元前365年
秦と韓に破れた魏は威信を取り戻すため、宋に攻め込み勝利した。
一方、趙は衛に攻め込み、甄を取ると韓と魏の間に立って、関係の修復が図られた。
紀元前364年
韓、魏、趙の間で関係の修復が行われると再び、秦が侵攻してきた。しかも三カ国が影響力を強め始めていた周へである。
そのため三カ国は秦軍と戦ったが、敗北してしまった。
このことに周の顕王は喜び、秦の献公を祝賀して黼黻の服を下賜した。
「黼黻」とはどういう服に関して二つの説がある。
一つめは、「黼」は斧の形をした刺繍で、「黻」は二つの「己」の字が背中合わせになっている模様の刺繍というものである。
二つめは、白と黒の模様が「黼」、黒と青の模様が「黻」という説である。
紀元前363年
秦は再び、魏を攻めると趙はこれを救援した。
このように秦と韓、魏、趙が対峙するという構図が天下に生まれていたのだが、ここで魏が外交方針を一変させる。
趙を攻めたのである。
趙はこのことに激怒した。
紀元前362年
趙は韓と共に魏に侵攻した。しかし、この二カ国に魏は勝利してしまった。この勝利に乗じて趙の領地に侵入した。
その隙に秦が庶長・国(国は人名)に魏の少梁を急襲した。魏軍本隊は慌てて帰還したが間に合わず、魏の宰相である公叔痤が捕えられるという大敗を喫してしまった。
この時、公孫鞅(商鞅)が公叔痤の開放に尽力して、見事の開放させてみせた。
彼の弁も良かったが、この年、秦の献公が倒れ、息子の孝公が即位したことも大きかった。
「馬鹿な国だ」
公孫鞅は魏の国を眺めながら呟いた。
秦の驚異が弱まったが、趙、韓に喧嘩を売ってしまった影響が出ており、恵王は楡次と陽邑を譲ることでひとまず、両国との関係は修復することができた。
「こんな国ではやがて限界も見えるというものだ」
今回のことは魏の外交が可笑しかったために乗じた事件である。
「こんな外交をしなければ、領地を渡すなどなかったであろうに」
彼はそう呟きながら、魏の暗い未来を予見した。
魏を暗くするのは自分であることは気づかないままに……