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夢幻の果て  作者: 大田牛二
最終章 天下統一
184/186

紙一重

大変遅れました

 尉繚うつりょうの策は終わってはいない。


 淮南で昌平君しょうへいくんが擁立されるという話しによって項燕こうえんの他にも楚に対し、忠義を尽くそうという連中をおびき出し、王翦おうせんによって殲滅させるというのが彼の策の最終段階である。


 例えば、春申君しゅんしんくん、項燕の元で副将を勤めていた周章しゅうしょうは項燕が向かった後に楚の忠義心の厚い者たちを集めてから来るように言われていた。


 しかし、昌平君が死に、項燕も死んだ後に王翦が淮南へ侵攻、昌平君の名に釣られてやってきた周章らに攻撃を仕掛けた。それによって周章は逃げることに成功するものの多くの楚の忠臣たちが殺されていった。


「秦の策であったか……」


 そう呟いた男がいた。既に老年に近づき始めている男である。


 彼は昌平君を項燕が擁立しようとしていると聞き、昌平君と項燕の元に行こうとしていた。しかしこの男はその動きに同調しようということではなく、止めるために行こうとしていた。


 男の考えはここで代のように抵抗しようとも無駄に終わるだろうというものである。


 なぜならあまりにも秦が強すぎるため、すぐに数の暴力で潰されるだろうと考えたためである。


(それなら時が来るまで隠れた方が良い)


 そのようなことになる前に身を隠し、反秦の勢力を各地に作っていずれ秦の天下が揺らいだ時に決起すれば良い。それで秦を打倒し楚の天下を作る。秦が諸国を滅ぼした後ならばそれもできるはずである。


 男はそう考えていた。


 しかし、秦の方が一枚上手であったようであった。昌平君は餌だったのである。


(やれやれ幸運だと思うべきか。不運だと思うべきか)


 これによって楚における対抗勢力のほとんどが潰されることになる。そうなれば秦の天下を揺るがすこともできないだろう。


(我が春秋が尽きる前に揺るがしたかったが、残念じゃのう)


 項燕も死んだという。秦に勝つことができた数少ない楚の英雄を失った以上、楚が再び世に現れることはないだろう。


「私が楚の大貴族に生まれておればのう」


 男はそう呟き、残念がった。


(仕方ない、今は時を待つしかあるまい)


 この壮大な構想を提案しようと考えていたこの男の名を范増はんぞうという。後に覇王の大翼となる男である。










 一方、もう一人。昌平君と項燕の元に行こうとしていた男がいた。


「くそ、秦の罠であったか」


 しかし男が淮南にたどり着いた時には王翦による侵攻が行われていた。


「おのれ、秦め」


 男はその容貌からは想像できない憎悪を秦に向けながら歯ぎしりをする。


「仕方ない。仕方ない。騙された楚の連中が悪いのだ。そんな連中に期待した私はもっと馬鹿だ」


 そんなことを言いながら男は引き返そうとすると道端で傷だらけの男が倒れていた。


「死んでいるのか?」


 男はその傷だらけの男の傍に近づき、口元に手をかざす。


「息がある。生きているな」


 まあこのままにしていれば、そのうち死ぬだろう。


 その時、秦兵の声が聞こえた。


「このあたりに逃げたはずだが……」


「ああ項燕の息子はこのあたりに逃げたはずだ」


(項燕の息子……)


 男は倒れている男をちらりと見る。


(秦打倒を考えれば……)


 これもまた秦への復讐になるだろう。そう思いながら男は倒れている男を引きずっていき、川の近くに来た。そこには移動に使った小舟がある。


 それに傷だらけの男を載せようとすると彼は目を覚ました。


「ここは。汝は誰だ。もしや秦の者か」


 警戒心をむき出しにする傷だらけの男に男は鼻で笑う。


「お前が倒れているところに秦兵が近づいてきたからここまで運んできたというのに、その言い草はなんだ?」


 傷だらけの男は目の前の女のような容貌の男がドスのきいた声を出してきたためぎょっとする。


(見た目より、修羅場を潜ってきている)


 自分と同年代ぐらいであろうが、苦労の度合いが彼の方が大きいような気がする。しかも自分を助けてくれたという。


「そうであったか。申し訳ない。秦に追われていたために警戒してしまったのだ。許して欲しい」


「わかればいい。ところであなたは項燕の息子か?」


「ああ、私は項伯こうはくと言う」


(苦労して暗い道を歩いてきたような感じを受けるがその割には風采は悪くなく、嫌味がない)


 項伯は自分の名を明かした後、目の前の男に対してそう思った。


「昌平君は秦の罠であったか」


「ああそうだ」


「そうか……」


「あなたも楚人か?」


 項伯が問いかけると男は首を振った。


「いや、私は韓人だ」


 そう言って男は笑った。


「まあ用いてくれるとは思ってはいなかったがな」


 そんなことはない。そう言い切れないところに項伯は悲しみを覚えた。


(楚人は他国の人を信用しない)


 楚人でありながら項伯がそう思うのだから相当である。


「それでも秦を憎む以上、縋りたかったのさ。さあこの小舟で向こう岸に行けば、逃げやすいだろう」


「感謝する。最後にあなたの名を聞きたいのだが?」


「か……張良ちょうりょう。字は子房しぼう


 張良は姓を言いよどんだ後そう言った。


「張子房殿か。この御恩は忘れぬ。必ずやお返し致す。その時までさらばです」


 項伯は拝礼してから小舟を漕いで行った。


「その御恩が返す時は本当に来るかな?」


 張良はそう呟いてから林の中に入っていった。


(それにしても清々しい男だった)


 久しぶりに良い人という者に出会ったかもしれない。そう思いながら彼は淮南からの脱出を目指した。


 後に歴史に関わる二人の小さな出会いであった。












 項伯は走りに走り淮南から脱出すると兄・項梁こうりょうの元に駆け込み、父の死。昌平君が秦の罠であったことを伝えた。


「父上っ」


 項梁は大いに泣いた。


「伯よ。逃げるぞ。今は隠れて時を待とう」


「はい」


 二人は家族ら一族を連れて江東に向かって逃走した。


 しかし、秦は項燕の息子がまだ生きていると知ると執拗に彼らを付け回した。その結果、項家の者たちはチリチリとなり、殺されていく者も多かった。


 それでも項梁は項伯、そして若い頃に病没してしまった兄の子であり甥の項羽こうう(名はせきを連れて逃げに逃げた。


 この逃避行は幼少の項羽にはとても辛く。その経験から秦を大いに憎悪し、やがて秦を壊滅させることになるのである。


 そんな彼を遠くから黄色い服の男。黄石こうせきは眺めていた。


(あれが……)


 一目見てわかった。あれの未来には無人の荒野が広がっており、天下を同じ光景にする男であると。


(まさしく破壊者か)


 いや正確に言えば、彼自身は一つの神話と言って良い。歴史という物語の中に組み込まれた神話。想像できない存在である。別の意味で天の寵愛を受けていると言っても良いだろう。


(だが、危なかった)


 黄石は汗を拭う。


(まさか歴史を変えかねないことになる点がまだあったとは)


 一歩間違えれば、どうなるかわからない事態になりかねなかった。


(天よ。あなたは何を考えている)


 このような流れは知らなかった。自分が関わったからこうなったのか。それとも彼らの意思がそうしたのか。しかし、それらも天の意思だとしたら。


(考えれば、考えるほどにおかしくなりそうだ)


「少なくとも紙一重としか言いようがなかった」


 一歩間違えれば、歴史の流れが違うものになりかねなかったと思いながら彼はそう呟いた。



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